田舎と香りの話

もう10年になるでしょうか。大阪で暮らしていたころには香水をいくつか持っていました。

フェラガモ・プールオム。ブルガリ・プールオム。ジルサンダーのサンメン。

あと何種類か持ってたと思いますけど、もう名前を忘れてしまいました。というのも、田舎暮らしを始めてからはほとんど香水をつけることもなくなったからです。

うちの田舎では、香水をする人はあんまりいません。そもそも色気づいた若い人が少ないというのがいちばんの理由でしょうけど、田舎特有の理由もあるのです。

田舎には虫や動物が多いのですが、香水のような強い匂いには虫や動物を興奮させる作用があります。うちは春先になると軒下にアシナガバチが巣を作ったり、家の前の畑でオオスズメバチが飛び回っていたり、もちろんミツバチやクマンバチが花の蜜を吸っていたりと、毒針を持った虫がわんさかいます。こういった虫は、香水のにおいで興奮して、間違えて人間を襲ってしまうことがあるのだそうです。

最近は洗濯洗剤もいい匂いのするものがたくさんあるのですが、この匂いにつられてハチが外干ししている衣服の中にもぐりこんでしまうことがあって、それに気づかず洗濯物を取り入れてるときに、ハチがびっくりして人間を刺すというケースがあるそうです。うちのご近所さんも数年前に洗濯物の取り込み中にスズメバチに刺されてしまいました。腕が真っ赤に腫れてしまって、痛々しくて気の毒でした。

シャンプー、デオドラントの匂いでもハチは興奮して攻撃を仕掛けてくることがあるといいます。

ぼくはふだんから虫が嫌がるミントのシャンプーを使ったり、洗濯でも強い香りの柔軟剤は選ばないようにしています。そのおかげかどうか、今まで田舎でハチに刺されたことはありません。

また虫だけでなく、うちの裏の山にはクマやシカやサルもいます。

サルがうちの屋根の上に乗って騒いだり、うちの軒先に干していた黒豆を盗み食いしていたこともあります。風の音にしてはあまりにもうるさいと思って窓をのぞいたんですが、窓を隔ててほんの数十センチ目の前に黒豆を食べてたサルの顔があって仰天しました。

うちの家は山際にあって、それ以上高いところには民家がありません。我が家は山から下りてきた獣にとって、いちばん近いところにある家なのです。

そんな田舎の山際にある家ですから、もしぼくが香水をつけていて、クマが匂いにつられて好奇心で近寄ってきて驚かせてしまったら、攻撃されることもあるかもしれません。さすがに香水が原因で動物が人間を襲ってきたというような話は聞いたことがありませんが、動物は匂いに敏感ですから、刺激しないのが一番です。

人間の場合は初めて出会った人でも香水の匂いがすることで、第一印象で「ああいい匂いの人だな」と思います。しかし動物が同じように思うとは限りません。むしろ警戒されたり襲われるリスクのほうが高いことでしょう。

いらないリスクを負う必要はないのです。

ちなみに罠猟師さんの中には嗅覚の鋭い獣の警戒心をなくすために、わざと罠を泥で洗って金属や鉱物油の匂いを消したり、自分自身も決してシャンプーなどを使わずにお湯で体を洗って匂いを消すというくらい徹底する人もいると聞きました。

かくして、ぼくも人と接する機会よりもほかの生き物と接することのほうが多いこの田舎において、香水をつけることはなくなってしまいました。移住当時、香水をつけない生活は少し寂しいことのようにも思えたのですが、もうすっかり慣れました。

田舎にいて香りをつけない暮らしに慣れたことで、人間とほかの動物の匂いの感覚の違いについて考えることが多くなりました。

実家で飼っている犬(中型犬)は風呂を嫌うのです。体を洗われることが大嫌いで、ぼくがシャワーを浴びせてシャンプーしてる間は、しっぽを垂れてじっと我慢しています。

シャンプーが終わってシャワーで体を洗い流し、最後にタオルで体を拭くときには、もう外に出たくて仕方ない様子で逃げようとします。それをなだめてなんとかタオルで体を拭き終わって、外に連れて行くと、すぐに地面に体をこすりつけてしまって、別の匂いを体にまとおうとするのです。

風呂に入れたぼくとしてはおおいに不本意です。せっかくきれいにしたのに、いきなり不衛生な地面に体をこすりつけられるのですから。

しかし犬にすればあれは本能的な行動で、彼らは自分の匂いが消えてしまうことが不安なのだそうです。自分の匂いはなわばりを示すものなので、犬からすれば自分の匂いが消えるということは、アイデンティティを失うということなのでしょう。だから、なわばりの匂いを取り戻そうとする。

そういえばうちの犬は、救急車のサイレンを聞くと遠吠えを始めるような犬ですから、原始的な犬の本能が残っていたのかもしれません。

社会的に生きる人間とは真逆なんですね。

社会的に生きるぼくらは、自分の匂いが出ることを嫌います。風呂に入らずにいることは、人間本来の匂いをまとうことなのかもしれませんが、現代社会でそれを「いい匂いだ」と思ってくれる人はほとんどいないでしょう。

われわれは風呂に入らずにいるのはくさいし不衛生だし不快だとわかっています。そう他人に思わせてしまうこともわかっています。だから風呂に入って体の汚れを落とし、できればいい匂いのするシャンプーで体を洗ってさっぱりするのを好むのです。

そういえば、以前ツイッターあった投稿で、昔のシャンプーの頻度を広告を比較しているものがありました。

1932年には「せめて月二回は! 髪を洗つてください。汚れた髪は衛生に悪いばかりでなく、他迷惑でございます」という売り文句でした。

これが1935年には「御洗髪は一週一度」とあります。

これが戦後になって高度経済成長期の1965年には「夏の髪洗いは5日に1度!」となり、バブルに差し掛かる1983年には「毎日洗うからわかるの 髪にやさしいって」と変遷していたのです。

この広告の売り文句をみればわかるように、われわれが毎日風呂に入る習慣を身につけたのもせいぜいここ30年くらいの話で、半世紀もさかのぼれば、夏の暑い盛りでも髪を洗うのは5日に1度だったのです。

人間の衛生観念はこの半世紀で一気に上がったというわけですが、当然この習慣を人間以外の動物に当てはめるわけにはいきません。

サルが冬になると温泉に浸かっている様子は有名ですが、あれは寒さをしのぐのが大きな目的で、気温が温かい時期に風呂に入ることはないそうです。お風呂に入るのは体をきれいにするのが目的ではないんですね。確かに温泉のない地域のサルは一年中風呂に入らずに生きていますから、温泉地のサルだけが清潔好き、ということはなさそうです。

イノシシは山を駆け回りながら、沼をみつけるとそこに入って体中を洗います。これはちょっとお風呂に入っているのに近いのですが、イノシシは体についたダニを落とすために沼で体をこすりつけるのです。

沼で遊んでぐちゃぐちゃになったぬかるみは「ぬたば」と呼ばれます。またイノシシが沼で体をこすりつける様子が「のたうち回る」という言葉の語源です。

ちなみにイノシシにとりついたマダニは血を吸って、大きなものだとマーブルチョコくらいに膨れ上がります。猟師はたまにマダニに噛まれることがあるそうですが、衣服の上からでも平気で噛みついて、一度とりつくと離れないのだそうです。そして噛まれるとものすごくかゆいのだそうな。

人間が一か所噛まれるだけでイライラするほどかゆいダニを、イノシシは全身にまとっているのだから、そりゃ沼でのたうち回るのも道理です。これはイノシシがお風呂に入っているといってもいいのかもしれませんが、それでも別にイノシシは体をきれいにしたいとか、いい匂いのシャンプーで体を洗いたいと思っているわけではなくて、ともかくかゆみから逃れたい一心なのでしょう。

しかしいい匂いのシャンプーはいらなくても、香りをかぎ分けるのは生き物が生きるための本能です。

われわれもおいしい匂いがすれば、これはおいしそうな匂いだとちゃんとわかります。ほかの生き物も同じです。畑に生ごみを捨てたら、どうしてこんなにすぐわかるのかと驚くくらい、すぐにカラスやトンビが現れます。タヌキやキツネもやってきます。都市部だったら、カラスのほかにネコやネズミが真っ先にあらわれるでしょうか。

けれど人間はちょっと違います。

人間は食べられもしない花の匂いに心を落ち着けたり、お葬式でお焼香や線香をあげて故人を弔ったり、体にわざわざ香水をつけて他人の気を惹いてみたり、料理にわざと香りの強いハーブを入れてアクセントを添えたりと、生きるための本質的な部分以外で香りを楽しむ習慣があります。

香りを楽しむという行為は人間特有の嗜好です。そして、この香りの嗜好は現代に至ってどんどんエスカレートしているようです。

現代社会では、いい匂いをさせすぎることが問題になって、香害なんて言葉が生まれています。香りの強い柔軟剤の衣服の匂いが町中に充満していることで、化学物質過敏症が出て苦しむ人もいるなんて話も聞きます。いかにも衛生観念の行き過ぎた現代特有の問題だと思います。

ちょっと皮肉なことですが、こんな香害社会の中においては、田舎で暮らすぼくのように生き物に気をつかって匂いをさせずに暮らすほうがいいのかもしれません。

レクタングル大広告




よろしければシェアお願いします!

レクタングル大広告




コメント