人生とは掃除で、モノはサイズで選ぶ

百姓をしてから気づいたことはたくさんありますが、中には、ぼくの生き方そのものを変えるようなものもありました。

何に気づいたのかというと、人生とは結局「散らかして掃除をする」繰り返しなのだ、ということです。

また与太話を始めたな、と思われるかもしれませんが、お時間があれば聞いてやってください。

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人生は掃除である

あるときぼくは、百姓仕事とはなんぞや、という問いかけをしました。そしてあれこれ考えているうちに、ぼくは百姓仕事とはつまり、掃除なのではないかと思ったのです。

百姓は畑を耕します。そして畝を作って種をまく。

しばらくすると種は発芽し、光合成しながらすくすくと育ちます。

われわれは雑草取りや間引きや摘心などをし、その都度道具を使っては片付けることを繰り返しながら栽培し、実りのときを迎え、収穫します。

栽培が終わったら、支柱を立てていた場合は撤去して、ビニールシートを張って栽培していた場合はそれをひっぺがして、また畑を耕して、畝を作って、種をまいて……。

ふと気づいたわけです。ああ、なんだ、百姓仕事の半分以上は、小さな掃除と大きな掃除を繰り返しているだけじゃないか、と。

美味しい野菜を作る技術にばかり気を取られていましたが、その間にあるのは掃除や整理整頓がほとんどで、むしろ掃除や整理の効率こそが仕事の本体だったのです。

野菜を得るという目的のために畑に資材を散らかして、それを片付けて、また散らかして、片付ける。出しては片付け、片付けては出す。

そしてこれは、別に農業に限ったことではないのではないか。人生とはずっと、掃除をしてばかりではないのか。

そう考えると、あらゆることが腑に落ちるような気がしました。

家事仕事はもちろんのこと、世の中のあらゆる仕事は、散らかして片付けるということに収束していくように思えました。

髪の毛が伸びれば、散髪する。体が汚れれば、風呂に入る。食事を作って食べ終わったら食器を洗って片付ける。

自分の仕事をすませることも「仕事を片付ける」と言いますが、社会に出て仕事をすることも、掃除だと思えば合点のいくことが多いです。

「考え事を整理する」という言い方もしますね。頭の中の世界だって、散らかった考えを掃除していく作業の繰り返しです。

ぼくはそれまで掃除が苦手だったのですが、このことに気づいて以来、なるほどこの人生を生きる限り掃除から逃れることはできないのだ、と気づいて、人並みには掃除ができるようになりました。

いつか自分のチカラで掃除ができなくなるようになるとき、社会的な人間としての自分は終わるのだろう、とさえ思っています。

「社会的な人間」というとむずかしく聞こえるかもしれませんが、この世の中で家族や社会のために掃除ができる生き物は人間だけです。

田舎暮らしをしていると、山の獣をみかける機会はいくらでもありますが、彼らは掃除をするという考えを持っていません。

体が汚くなったから風呂に入ろうとも思わないようですし、散らかったからものを片付けようとも思わないようです。

たとえ人間に近いというチンパンジーでも、掃除をする意味は一生かけて教えても理解できないでしょう。人間が掃除の仕方を教えてそれをマネすることはできても、なぜ掃除をしなければいけないのかということにまで思い至れないのです。

自分たちの社会性を維持・発展させるために掃除が必要なんだよ、とチンパンジーに教えても、それを彼らが実践することはおそらくできないでしょう。

そうすると、人間が掃除することは万物の霊長たるゆえんだ、とさえいえそうです。そう考えていけば、人類の文明の発展だって……とまあ、大風呂敷を広げるのはこのへんにしときましょう。

かくして「人生とは掃除である」というのがぼくの人生哲学のひとつとなったわけですが、さらに今日は掃除するための道具の選び方について、話そうと思うのです。

モノはサイズで選ぶ

百姓仕事をはじめたとき、畑はクワで耕すのが基本だろうと思っていました。

それで最初の一年目はえっちらおっちらクワで畑を耕していたのですが、いざやってみると、これではまったく仕事にならないのです。

自分が食べるぶんくらいは生産できるかもしれないけれど、それにしたって効率が悪い。

そこで、やっぱり道具が必要なんだなと思い至って、耕運機を手に入れました。

これはクワで畑を耕すことを考えたら夢のような機械でした。エンジンをかけると自走しながら刃が回転して、畑を耕してくれるのです。ぼくはハンドルを握りながら耕運機と一緒に歩くだけ。

今まで一週間かけて耕していた畑が、ほんの数時間で耕せるようになったのですから驚きです。

これで一気に百姓仕事がはかどるようになりました。

しかし、しばらくするとさらに欲が出ます。

乗用のトラクターがあれば、もっと広範囲に畑が管理できるのになあ、と。

そして、あるときご近所さんが「使い古しのトラクター、売ったるけどいらんか」とおっしゃったので、思い切って買うことにしました。

これで世界が一気に変わります。

馬力の小さなトラクターですが、これまで半日かけて耕運機で耕していた畑も、トラクターなら2時間もあれば今までよりはるかに深く耕し、畝まで立てられるようになりました。

さらに欲をかいたぼくは、馬力の大きなトラクターも運転させてもらったことがあります。

馬力のあるトラクターならもっといろんな畑仕事ができるぞと思ったのです。

しかし今度は、うちのような山の斜面にある小さな畑では取り回しがむずかしくなってしまって、ここまで大きなものは逆に扱いづらいということがわかりました。

そんな紆余曲折を経て、うちでは型の古い馬力の小さなトラクター一台が主力になりました。

何が言いたいのかというと、道具にはだいたい「そこにちょうどいい」クラスのものがあって、その選び方が大事だということです。

こういった「サイズの選び方」だって、百姓仕事に限ったことではありません。

ワンルームマンションに100インチのテレビがあったって邪魔なだけでしょうし、逆に野球場のオーロラビジョンのかわりに100インチのテレビを張り付けたって、何もまともに見えません。

服のサイズはもっとわかりやすいですね。Mサイズの人はMサイズの服を着るべきですし、Lサイズの服はだぶだぶになりますし、Sサイズの服は着ることすらできないかもしれません。

人生は掃除で、モノはサイズで選ぶ。なんという単純でわかりやすい暮らしの基準でしょうか。

そういえば最近、「終活で断捨離」という、二十年前の人に聞かせたら仏教用語としか思われないようなフレーズを耳にするようになりました。

あれはつまり、人生のしまい支度として、暮らしそのもののサイズを落として、最後の掃除をしていこうよという話ですね。戦後の日本はモノにあふれ、豊かになりました。しかしその豊かさはモノ余りを生みます。そして世代を経て、豊かさを象徴するはずだったモノがうとまれるようにさえなってきました。

現在老齢の方からすれば、経済成長期からため込んできた豊かさをゴミ扱いされるのは心外でしょうけど、あの世にはモノどころか自分の体すら持ってはいけません。

理性ある人間の態度としては、自分の豊かさがゴミになっていくことを自覚し、これからを生きる人間に迷惑がかからないよう道筋をつけよう、と考えるわけで、そういった心理が「終活で断捨離」ということにつながるようです。

「終活で断捨離」のように上手な人生のしまい方について考え、実践する人もいる一方で、世の中には、生活のサイズを決めるのが苦手な人もいます。

暮らしの中からモノをどんどん追い出してしまうミニマリストや、逆に家にどんどんモノをため込んでごみ屋敷にしてしまう人。

こういった人はなんだか極端な印象がありますが、近年これらの極端な性質は、本人の意思ではコントロールしきれない脳の問題である可能性についても聞くようになりました。

当人はバランスが悪いことや、極端であることを自覚してはいるんですが、どうにもできないんですよね。

掃除こそが人生だ、モノはちょうどいいサイズのものを選ぶべきだ、なんてことを散々書いておきながら、ぼくは掃除ができなかったり、掃除をしすぎてしまうような人の気持ちもわかる気がします。

人間、理屈や理想では「片付けることのできない問題」がいくらだってあります。バランスの悪いところも人間の多様性ですし、動物としての人間の、ままならないところなのだろうと思うのです。

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