金のさかなを探し求めて

平成とはなんだったのでしょうね。

経済的には停滞の30年だったとか、政治的には2大政党制にチャレンジして失敗した30年だったとか、いろんな見方で総括がなされていますが、こういうことは「こういうことだった」とひとつに絞るよりも、まずはできるだけ多くの見方を示すことで徐々に絞り込まれていくのでしょう。

さて、そんな平成の総括にぼくも加わろうと思うわけですが、ぼくの手元には今、ある本があります。

ぼくが子供のころ、親が買い与えてくれた「世界名作童話集」です。

ぼくは幼少時にこの本をずっと読んでいたのですが、親はぼくが成長する中でこの本を手放してしまいました。

とても思い入れがある本で、もう一度読み返してたいと思っていたのですが、ぼくが大人になるころにはもう出版社は倒産して、絶版になっており、新本を入手することは不可能でした。

それがつい先日、オークションに出ているのを発見。買いなおしたのです。

18冊もある全集を30年ぶりに読み返していると、子供のころに喜んで読んでいたのとは違う話に感銘を受けることがあるんですね。

それで今回は「平成」にからめてざっくりふたつの話を紹介したいと思うんですが、そのうちひとつは、『マッチ売りの少女』です。

誰でも知ってるアンデルセンの童話です。昔読んだときは、この話にはそれほど関心がありませんでした。

とても有名な話だけど、ただ寂しい、せつない話だというくらいの記憶しかありません。

マッチ売りの少女のどこが平成と関係あるんだって?

まあ、とりあえずあらすじからごらんくださいな。

年の瀬の押し迫るある日、少女が、街頭に出て、マッチを売っています。

「マッチ、いかがですか」

しかし誰も少女のマッチを買ってくれる人はいませんでした。

少女は空腹と寒さでどうしようもありません。

マッチが売れないと、家に帰ることもできないのです。

それで、途方に暮れてとぼとぼ歩いていたら、年の瀬を祝う家々からごちそうの匂いが流れてきました。

いよいよ少女はひもじくなってしまいます。

「そうだ、マッチをつければ暖かくなれる」

少女が一本のマッチをすって、暖かい炎にみとれていると、炎の中に暖炉がみえました。しかし少女が手を伸ばすと、炎は消えてしまいました。

もっとあの暖炉の前にいたいと思った少女は、もう一本マッチをつけました。

今度は、暖かな暖炉の前にテーブルがあって、その上にごちそうが並んでいます。

しかしそのごちそうも、マッチが消えると同時に消えてしまいました。

もう一本、マッチをすると、今度はもう亡くなったはずの、少女をいちばんかわいがってくれたおばあさんがあらわれました。

少女は、これまでの暖炉やごちそうのように、おばあさんが消えてしまってはいけないと、マッチを次から次へつけていき、

「おばあさん、いかないで。わたしを、連れていってちょうだい」

と叫びました。炎の中のおばあさんはにっこり笑ってうなずくと、少女を両手でしっかり抱き上げて、福音に満ちたクリスマスの夜空へ少女を導くのでした。

翌朝、燃えかすになったマッチが散らばるそばに少女のなきがらが転がっているのをみて、町の人たちは「かわいそうに、マッチの火であたたまりたかったんだろうね」とうわさしました。

誰も、少女がおばあさんに導かれて、幸福な思いで最期を迎えたことを知らないまま。

じつに寂しい話ですね。

ところが、子供のときには寂しいだけの話だったのが、大人になると、これが産業革命によって生まれた物語だということがわかるんですね。

ヨーロッパから始まった産業革命は、これまでの人々の暮らしを一変させ、豊かにしましたが、同時に競争社会に人々を巻き込み、貧富の差が生まれることにもなりました。

「お金のかかる暮らし」が生まれたことによって、お金のある人はさらにお金を稼ぐために一生懸命になり、お金のない人は苛烈な底辺労働で糊口をしのがねばならなくなりました。

そしてこの時代、貧しい人の代表的な仕事が、マッチ工場労働だったのです。

貧しい家の子だった少女は、少しでも生活の足しになるように、家族が作ったマッチを外に売りに出て、少しでもお金を稼がねばなりませんでした。

近所の子供たちからは「マッチ売りの貧乏な子」といってからかわれ、いじめられます。

そして外でマッチを売り歩いても、気の留めてくれる人など誰もいないのです。

しかし気に留めてくれる人がいないのを責めるわけにはいきません。なぜなら、マッチ売りの少女のかたわらを通り過ぎていく人々もまた、日々の競争社会にあえぐ「余裕のない人々」だからです。

少女はつまり、現代的な言い方をすれば、社会弱者であり、差別されていた子だったのですね。

マッチを売らず、お金も稼げずに家に帰ったら親から怒られてしまいますから、つらくてもマッチを売り続けるしかありません。

それでも飢えとひもじさでたまらなくなった少女は、とうとう売り物のマッチで暖をとってしまいます。

少女がマッチの炎からみていたのは、死を前にした幻覚でしょう。

その幻覚でさえ、暖炉やごちそうなどの「物質的な豊かさ」は少女の手に届くより前に消えてなくなってしまいました。

そして、最後に少女はおばあさんから受けた愛情と、キリスト教の福音に導かれて、凍死してしまうのです。

マッチ売りの少女の時代から200年近く経とうとしている現在でも、われわれはやはり競争社会の中であえいでいます。

ところで少し対照的な話ですが、昭和の終わりから平成のはじめにかけて、『一杯のかけそば』という童話が話題になりました。

戦後から高度経済成長期にかけて極貧に陥ったある母子家族が、年の瀬になると家族で一杯のかけそばを求めてそば屋にやってくる。そば屋はこの家族の事情を察して、黙って少し多めのかけそばを出してあげるということを毎年続けるんですが、このときの子供がやがて立派な社会人になって家族と一緒にそば屋に訪れて「あのときのそばで生き抜くことができました」とお礼を言いにやってくる、という話です。

「一億総中流」といわれる豊かさを築いた平成初期の日本では、この家族のような貧しい思いをしている人を助けてやりたいと思う社会の余裕があったようです。

しかし最近の日本は余裕がなくなって、他人に対して思いやりを失い、不寛容な態度をとっているのをみかけることが多くなりました。

あるいは義憤という形をとり、あるいは差別という形をとり、いつも誰かが何かに怒っている。

そういった怒りにあふれる世の中になるのと並行して、生活に困窮する人が徐々に社会に増え始めています。

しかしわれわれもまた少しずつ生活が苦しくなっていく中で、弱者たちに愛情を傾ける余裕がなくなったきたようです。

まるで、マッチ売りの少女に一瞥もくれなかった群衆のように。

さて、今日紹介したいもうひとつの童話は『金のさかな』です。こちらはぼくが持っている本ではグリム作とあるのですが、ネットで調べてみたらロシアの民話だそうです。

実に教訓めいた話なのですが、こちらもあらすじから紹介します。

海辺にまずしい老夫婦が住んでいました。

ある日おじいさんが釣りをしていると、今までみたこともない大きな金色の魚が釣れました。

するとなんと驚いたことに、この魚が、言葉を話して命乞いをしたのです。

「どうか助けてください。わたしは魔法の金の魚です。なんでもお礼をするから、逃がしてください」

このおじいさんは、何もいわずに魚にかかった針をはずしてやると、「お礼はいらないから、帰りなさい」といって逃がしてやりました。

「おじいさん、ありがとう。ご恩は決して忘れませんよ」

それで、おじいさんは家に帰るとおばあさんに、今日あった不思議なできごとを話しました。

おばあさんは、おじいさんのお人好しぶりにおどろいて、おじいさんをなじります。

「あのね、だからわたしたちは貧乏なのよ。このボロ小屋をみてごらんなさい。こんなところに住んでるのはわたしたちだけですよ。せめてもうちょっといい家がほしい、くらいのことは頼んでもらわないと。今からでも魚を呼びつけて、お願いしてくださいな」

それで、おじいさんは、おばあさんの気持ちがわからないでもないので、仕方なしに海に向かい、魚を呼びました。

「おーい、魚よ、いるか」

どんよりと濁った海の向こうから、金の魚はすぐにあらわれました。

「どうしましたか、おじいさん」

「うちのばあさんが、もっといい家に住みたいというんだが」

「そうですか。わかりました。家に帰ってごらんなさい」

それでおじいさんが家に向かうと、小屋のあった場所に新しい家が建っています。

おばあさんは大喜びでした。前の小屋のことを考えると、すばらしい家です。

しかししばらくするとおばあさんは不満げに、「もっと大きな、頑丈な家がほしい」と言い始めました。

「そんなことを言ったら罰が当たるぞ」とおじいさんはたしなめましたが、さらにしばらくするとおばあさんは「もうこんな家はごめん。せっかく魔法の魚がいるのに、こんなので満足できません」とわがままを言ってききません。

それでおじいさんは仕方なしに、また金の魚にお願いをしに行きました。

以前よりも暗く濁った海の中から、魚があらわれます。

「そうですか。わかりました。望みはかないますよ」

おじいさんが家に向かうと、これまでの家があったところに、御殿が立っているではありませんか。

そして、おおいばりでふるまうおばあさんは今度は、「わたしは女王になりたい」と言い出したのです。

増長していくおばあさんに呆れかえりながらも、おばあさんがこれで満足してくれるのであればと、おじいさんはまた魚にお願いをしに行きました。

海はいよいよ荒れて、黒く波打っていました。

「望みはかなえましょう。安心しておかえりなさい」

それでおじいさんが家に向かうと、もう御殿は巨大なお城になっていました。

おじいさんがお城の中に入ろうとすると、門番につかまって、「お前は何者だ」と尋問されてしまいました。

「へえ、ばあさんに会いたいのだが」

「女王様をばあさん呼ばわりするとは無礼者め!」

と門番は怒りましたが、おじいさんが女王の旦那様だとわかると、すぐにお城の中に案内されました。

おばあさんは多くの家来を従えて玉座に座っており、体には宝石をつけてきらびやかな着物をまとっていました。

しかしそのような豪奢な生活にもしばらくすると飽きてしまったようです。おばあさんはおじいさんを呼びつけて、言いました。

「じいさんや、わたしはもう女王様なんて飽き飽きだ。わたしは神になる。あの魚にそう言っておくれ」

おじいさんはさすがにいくらなんでもムチャクチャだと、おばあさんを叱りつけましたが、権力者となった女王には取り付く島もありません。

おじいさんはとぼとぼと海に向かい、魚を呼びました。海はもう真っ黒になっていました。

「おじいさん、今度はどうしました」

「ばあさんが、今度は神になりたいと言ったのだ」

「そうですか。おじいさん。もうおうちにお帰りなさい。おばあさんは昔の小屋で暮らしていますから」

そういうなり、魚は海に潜って、もう出てくることはありませんでした。

おじいさんが家に帰ると、お城も御殿も家もなくなって、以前と同じ粗末な小屋がありました。

そしておばあさんもまた以前と同じぼろを着て、おじいさんの帰りを待っていました。

……まあ、日本の昔話にもよくありますね。こぶとりじいさんとか、はなさかじいさんにでてくる「いじわるじいさん」の類で、欲をかきすぎて天罰を受けるパターンの話のようです。

しかしぼくはこのおじいさんは、もしかしたら豊かな暮らしから元の暮らしに戻ったことで、ホッとしたのではないかと思うんですね。

このおじいさんは常に、その時点に存在している豊かさで満足していて、それ以上のことを望まない性格だったのだろうと思います。

しかし結局のところ、おばあさんが底抜けの強欲であるということにおじいさんは消極的に加担します。

金の魚はいくらでも願いをきいてくれましたが、最後、おばあさんが神になりたいといった時点で、これまでのあらゆる物質的な豊かさを反故にして、強制的に元の暮らしに戻してしまいました。

ぼくはずっと、これは金の魚が老夫婦に罰を与えたのだと思ってましたし、そういう解釈でもいいと思うんですが、先日読み返してみたときに、実はそうじゃなくて、この魚は最後に、おじいさんの望みをかなえたんじゃないか、と思ったのです。

おじいさんは、おばあさんが増長していくのをどうにかしたいと思っていたけど、貧しい暮らしをしていたから、おばあさんの願いをかなえてやりたいという気持ちもあった。

金の魚はそんなおじいさんの願いをかなえてあげたかったのであって、おばあさんの願いをかなえてやりたかったのではありません。

だから、おじいさんがとうとうおばあさんの増長ぶりに愛想をつかしたときに、この魚もまたおばあさんの望みではなく、おじいさんの願いをかなえたのではないか。

さて、ぼくは平成という時代は、どこかへ行ってしまった「金のさかな」を追い求め続けた時代だったと思っています。

豊かさを追い求めて、飽き足らず、追い求めて、飽き足らず。

もちろん世界中のすべての国が、物質的な豊かさを望んでいます。豊かさに貪欲なのは、日本だけではありません。

しかし日本は、そんな世界中の欲望を差し置いて、ほんとうに豊かになりました。

東京23区の地価でアメリカ合衆国全土が買えるとまで言われるほどの経済成長の頂点を極めて、まだまだ成長していけると思い込んでいた時代。

そして日本人の底なしの欲望をかなえてきた「金のさかな」は、突然いなくなりました。平成3年のことです。

バブルがはじけてもしばらくの間日本人は、またすぐにバブル景気が訪れるだろう、と楽観していた向きもあったようです。

しかし平成の間に、魔法の魚があらわれることはありませんでした。

それでも日本人は、またいつか金のさかながあらわれて、望みをかなえてくれるのではないかと、今もずっと待ちわびているのです。

……さて、今回は特に長い記事になりましたが、ここまでお読みいただいてありがとうございました。

童話というのは子供の読み物ですが、むしろ大人になってから心に響くようになりますね。

その理由は、作品を書いているのがほかでもない大人だからです。

童話作家たちは子供のための読み物を書くのと同時に、子供たちが大人にならないとわからない何かを、作品の中にしのばせています。

それは時限爆弾のように、われわれが大人になったある日、炸裂します。

たとえば自分の人生であったり、今生きている社会であったりが、子供のころ読んだ童話とつながるのですね。

それで今回はぼくなりに、子供のころに読んだ童話と、自分の生きている時代とを結び付けてみました。

みなさんももし、子供のときに読んだきりの童話があったら、もう一度お読みになることをおススメします。きっと新しい気づきがあると思いますよ。

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