石と土と豊かな暮らしと

百姓が畑をたがやすにあたって、石はたいへん邪魔なものです。

ふるった鍬に石があたって「ガチン」というのはかなり不快なもので、みつけては取り除いて、圃場の外に捨てるということを繰り返します。

ニンジンやダイコンなどの根菜を育てるときに、根の育つ場所に石があると、いわゆる「股根」といって、根が石を避けて成長してしまいます。

しかし、石も土も、「地面」を構成する要素という意味では似たようなものですね。

でも土はよくて、石は邪魔なのは、どうしてなんだろう。

石を粉々に砕いていくと、砂になるんでしょう?

じゃあ、砂をもっともっと細かく砕いていくと、土になる?

ならないよなあ。砂は砂ですよ。

砂で野菜は育てられる? たぶん、植物にもよるだろうけど、砂だけだと野菜はうまく育たないだろうなあ。

そんなことを考えはじめると、そもそも砂と土の違いはなんなの、という疑問がわいてきます。

そこで今日は「石」と「土」ということにスポットライトを当てて、とりとめなく書き進めてみようと思います。

石と砂は、もともと同じものですね。

漢字にしたら「石が少ない」で砂ですもんね。

それで、砂というのは少しややこしい言い方をすると、砕屑物(さいせつぶつ)といいます。

「くだいてクズになったもの」で、砕屑物。

何をくだいて砕屑物になったのかというと、岩です。

いちいち漢字をみていくとおもしろいんですが、岩は「山のような石」ですから、大きな石は岩なのです。

そしてじつはこの岩というのは、地球の表面を構成する物質そのものだったりします。

ところで、昔の人はお月さんにはウサギがいて、モチをついているんだと言ってました。

ぼくが子供のときにもそんな話を聞きました。

昔の人がどうしてそんなことを言ったのかというと、この理由がなんとも不思議です。

肉眼でお月さんをみたときにその表面のクレーターの形がまるで杵をかついだウサギと臼のようにみえるからだというのです。

同じ理屈で月の表面のクレーターがカニの形に見えることから、よその国では「月にはカニがいる」とも言っていたようです。

これは言い換えると「イタリアにはでかい長靴が住んでいる」というような話で、さすがに子供のころのぼくでさえ子供だましな話だと思っていましたが、それはぼくが子供のころにはもう科学的に月という星がどういうものかわかっていたからでしょう。

1970年、アポロ13号が月面たどりつきます。

そして、月面をみてみると、これが、ただの岩のカタマリなんですね。当然ウサギもいなければ、モチもついてない。

質量が少ないために引力もまた少ない月を、宇宙飛行士がぴょんぴょんと飛んでアメリカの国旗を立てるという「月の侵略」の映像はあまりにも有名です。

うちの親はこの月面調査のニュースをみたときに、科学の発展に圧倒されたと同時に、夢がなくなってがっかりしたそうです。

「うさぎがいるかもしれないと思っていることが楽しかったのに、いないということがわかってしまうのは残酷だ」

というのです。信じていた夢物語が、科学によって明確に否定されてがっかりしてしまうという気持ちは、わからないでもないです。

そこから現代になってさらに知見が進んで、どうやらお月さんというのは、地球が誕生してしばらくしたとき、巨大な隕石が衝突して分離した「地球のかたわれ」ではないかといわれています。

さて、ではなぜ地球には「土」があるのか。

地球の兄弟ともいえる月は岩ばかりなのに、地球には土がある。ぼくはその土を耕して野菜を作っている。

これはどうしてかというと、地球には有機物(生物)が存在するからなんですね。

地球ももともとはぐつぐつと煮えたぎった核の表面を岩石とガスが覆うだけの惑星でしたが、この惑星には水(海)が存在しました。さらに有機物が生息できる環境が徐々にできてきたことによって単細胞生物が誕生します。

しかし生命が誕生したばかりの地球上はたいへん過酷で、生物がエサにできる有機物がほとんどありません。そこで少しずつ生物が獲得したのが「光合成」という、太陽光をエネルギーにして炭水化物を生産するという能力です。

これによって有機物が増え、さらに有機物が有機物をえさにするという循環が始まりました。

そこから、ずいぶん長い間生き物は海の中でだけ生きてきたのですが、そのうち地球では陸上で生物が生きていけるような環境が整って、陸上生活に適応した生物があらわれるようになります。これが今から5億年ほど前のことだといわれます。

少なくともこんにちのわれわれの陸上での生活は、地球が5億年かけてきた循環のうえに成り立っているというわけです。

しかし「人間の近代文明」というのはわがままですから、地球の循環にそのまますっぽりと当てはまるようなことはしないようです。

太平洋の南西部に「ナウル」という島があります。

国土面積が21平方キロメートルという小さな島ですが、ここは人間の歴史よりはるか以前から海鳥のたまり場で、海鳥の糞がどんどん堆積していたんですね。

鳥の糞にはリンという無機物が多く含まれているのですが、この島はいつしかリンが鉱石状に固まって大量に堆積する島となったのでした。

しかし近代に入って西洋諸国がこのナウルを侵略し、ここにリン鉱石が大量に存在することがわかると、これを採掘するビジネスが始まります。

それで20世紀中はナウルは資源国としてずいぶん豊かな暮らしができたようですが、20世紀末にはもう島のリン資源は枯渇してしまい、現在では他国からの支援なしでは島の暮らしは成り立たなくなってしまいました。

地球上で長い間かけて積み重ねてきた資源を100年そこらで消費し尽くしてしまう近代的な生き方はじつに因業だと思いますが、そういうことは今を生きている人間にはなかなかわからないことなのかもしれません。

20世紀に生きたナウルの人たちは、どんどん枯渇し行くリン資源を前にしても「この鉱石はどれくらい昔からここに堆積しはじめたのだろうか」ということを考えて、「こういうことをしてたら人間の暮らしは破綻してしまうんじゃないか」といったことまで考えて、採掘をやめる余裕はなかったでしょう。

それどころかむしろ「この島にリン鉱石がなくなったとしても、地球が滅びるわけでもあるまい」と思っていたでしょうし、あるいは「もし人間が滅びるにしても、われわれはもう豊かな暮らしをあきらめることはできない」とさえ考えていたかもしれません。

で、いろんな考え方があると思うんですけど、ぼくは個人的には、このナウルの人を責める気にはなれません。

地球の温暖化を食い止めるために、日本人だけ石油をまったく使わない生活をすることができるでしょうか。

よその国は豊かな暮らしを維持したいから石油に依存し続ける。日本人だけ我慢してくれ、といわれたら、そんなことできるわけがありません。

みんな豊かになりたくて、もうこのチキンレースはどうしたってやめることができないのです。

ナウルのような資源争奪戦は地球上でこれからも繰り返されるだろうと思いますけど、人類は既存の地球の資源をどんどん使いながら豊かな暮らしを維持しようとするでしょう。

しかし同時に、問題が出てくればその都度、科学的にさまざまな代替手段を編み出して、「これまでにはなかった、あたらしい人間のための地球の循環システム」を形成していくだろうと思います。

このシステムが形成されなかったら人類の文明は袋小路になるでしょうけど、ぼく自身人類の一員として、人間が豊かな未来を維持しながら、持続可能な世界を築くことに賭けているのです。

今日、ぼくは買い物でホームセンターに行ったんですが、もう草刈機の陳列コーナーの主役が、これまでのガソリンで駆動するものから、充電池による電気駆動のものに変わってきてるんですね。

車もどんどんハイブリッドが出てきて、今後は電気自動車に切り替わってくるようですね。脱石油社会が徐々に近づいてきた印象です。

そういえば、石油にも「石」という漢字が混じってますね。

石油に関してはどうもこれまでの通説だった、過去に地球に存在していた植物の化石が原料で、もうすぐにでも枯渇してしまうというような資源ではなく、地球の内側からどんどんわいてくる無機物由来のエネルギー資源だといわれはじめています。

しかし結局のところ、世界が脱石油社会を目指すのは、石油が今すぐに枯渇するかしないかという話よりも、地球の急速な温暖化に歯止めをかけたい意味合いが強いようです。

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