ほんとうに、与える愛と受け取る愛は等量なのか?

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THE END

ビートルズが解散する前に「THE END」という曲を発表するのですが、この曲の最後にはこんな一節があります。

And in the end The love you take Is equal to the love You make.

(結局のところ、あなたの受け取る愛は、あなたが与える愛と等量なんだよ)


ぼくはこの歌詞について、最初はそのまま、因果応報のようなものだと思っていました。自分がしたことは自分に返ってくるのだ、と。

けれど、よくよく考えると、自分のしたことと等量の愛や憎悪が自分に返ってくる、というには世の中はあまりにもアンバランスです。


世の中には与えっぱなしの人もいれば、受け取りっぱなしの人もいる。

そういうアンバランスさを考えると、あの歌詞はどうも偽善的なように思えます。
そんな単純な話じゃないだろう、と。

これが最初の印象でした。


ところがしばらくすると、もうひとつ別の視点で歌詞をみつめるようになりました。

ようするにあれは、全人類でその愛を平均してしまえば、やっぱり与えたぶんと受け取るぶんは等量になるのだろうな、と。


ビートルズはコスモポリタン(全世界をひとつの国と考える人)を大いに意識していたと思いますが、そういう視点で考えると、全人類で与える愛、受け取る愛を平均して、それをひとりの人に還元している、と考えるなら、あの歌詞のようになるでしょう。


それで、しばらくはそういうものだろうと思っていたんですが、最近また視点が変わって、あれはつまり、さっき言ったような全人類で愛をやり取りすることと、それが個人単位になったときの不条理を、行き来しながら考えるべきなんじゃないかな、と。


むずかしい言い方になりましたけど、確率の話でたとえるとわかりやすいかな。

じゃんけんを無機質に10回繰り返すと、もしかしたら10回連続で自分が負けることもあれば、勝つこともあるでしょう。

けれど、それが1000回になると、だいたい勝ち・負け・あいこが3等分になってくる。確率が収束してくるんですね。


つまり、与えた愛が今日明日にも同じ愛になって返ってくる、と考えるのではなくて、もっと長い視点が必要なのだということです。

じゃんけんを1000回繰り返すように、愛も与え続けていくことで、確率を収束させていく。


だから、いま自分の与える愛と受け取る愛がいびつなバランスに感じられても、自分の人生の終わった後にまで延長線をひいて、長い期間をかけて等量になっていくビジョンを描いていれば、やっぱり確率は収束していくのだろう、というのが、今の時点での理解です。


もちろん、それがぼくの行動として伴うかどうかは別として。

オクラの圃場の草刈り

今日は久しぶりに雨が降らないことが確定した一日で、どこもかしこも草刈機がうなってたんですが、うちも同じく草刈りをしました。

オクラは通路が広くて、雑草の処理がたいへんなんですが、今日はそこの草刈り。


除草剤で処理してもいいんですけどね。なんとなくオクラの木にかかってしまうのが怖くて、草刈機で処理してます。


とはいえ今年はオクラを連作してしまって、案の定線虫害が出てしまいました。

いちおう薬剤で病害を抑えているのですが、生育がずいぶんばらついてしまいました。

もったいないことをしたなあ(;^ω^)


だからといってヤケクソになって通路に除草剤まいてしまうような暴挙に出ないというのが、大人なのですよ。

カラスが来なくなった、かも

今日も朝いちばん、カラスのキモチワルイ鳴き声で目を覚ましたぼくは、玄関に置いてあるエアガンを手に外に出て、電信柱の上にとまっていたカラスめがけて撃ちました。


そこにいたのは3羽のカラス。

「あれ、つがいじゃないぞ」と思ったんですが、逃げていくカラスのうち2羽が同じ方向へ飛んでいくのをみて、もしかしたら雄が雌の取り合いをしていたのかもな、と。

そこから昼の今まで、こっちでは鳴き声が聞こえません。


ざまあみろ、といいたいところですが、おかげでこちらは5時間睡眠。
朝5時から鳴かんでくれよぉヽ(´Д`)ノ

昔はこういうカラスに対しては、猟銃免許を持った猟師さんに頼んだら、「からす撃ち」をしてくれたというのですが、このあたりも猟師さんが減って、今はカラスを撃ってくれる人はいなくなりました。


今日は夕方になってもカラスが来ないので、たぶんエアガン効果あったんだと思うなあ。

(´∀`*)

ただひたすら小賢しい人たち

警察官を挑発する動画が話題になってますけど、若いということの本質はああいうものだろうな、と。

つまり、無分別なんです。


警察官をおちょくってるからといって、彼らには何の政治的情動も感じられません。

この社会に何か爪痕を残そうというのでもなく、自己承認欲求が行動の主体です。

左翼的な体制打破の意図があるわけでもないし、もし仮に彼らの中に今の世の中に充満しつつある安易な愛国ムードに乗っているような子がいるとしたら、それこそ滑稽で矛盾した反社会しぐさです。


反社会行動を含む日本のアナーキーなしぐさ……つまり尾崎豊の歌にあるような、バイクを盗んだり校舎の窓ガラスを割ったり、という無秩序で暴力的な行動の先にあるのは、しばしば戦後民主主義社会に対する憎悪であったという総括になり、愛国主義へと変節することが多いのですが、ぼくはこの警官挑発動画にも同じようなものを感じています。


結局のところ彼らは、理由付けしにくいモヤモヤとしたうっぷんを、モヤモヤしたままモヤモヤと表現しているだけのように思えるのです。

子供の試し行動の延長線上にあると思うんですが、昔の暴走族などのことを考えるとやり方がとても巧妙になっていて、たとえば動画を撮影することで警官が暴れないようにしたり、決して体に触れないことで法的にギリギリの挑発を行うといったところに、現代ならではの「小賢しさ」を感じます。

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