ニュースメディアに思う

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ニュースメディアに思う

今回の参院選ですが、結局京アニと吉本のノイズでほとんどかき消されてしまい、テレビやラジオ、あらゆるメディアにおいて、腰を据えた総括もできていないし、そもそも参院選に向けてきちんと各政党の政策のよしあしを議論する場も少なかったように思えます。

そこで、ぼくはこんな危惧をするのです。


もしぼくが現政権寄りの過激思想の持ち主であれば。

ああ、なんだ。選挙前に大きな事件があれば、メディアはそっちばかりを取り上げて、誰も政治に目を向けなくなるのだな。そうすれば国民は政治のニュースに触れることなくいつまでもバカでいてくれて、投票率は下がるし、国民に都合の悪い法案も素通りする。最初からバカを取り込もうとしている政党にとっては好都合じゃないか」

と。

もしそれが通用するのなら、わざと選挙前だったり、国民に都合の悪い法案を通したい時などに、大事件をぶつけることだってできますよね。

今回の京アニや吉本の件がそうだといってるんじゃないですよ?

けれどメディアが今のままだったら、今後もこういうセンセーショナルな出来事が、政治的に重要なタイミングで起こる可能性はあると思います。


メディアは、国民の将来にかかわる政治的な問題よりも、ニュースバリューの高いものを優先する姿勢です。

ぼくが現代的な革命家で、命の捨て所を探している人間だったら、きちんとタイミングを見計らって大事件を起こすだろうなあと思います。

それで見事にメディアがこっちに陽動されて、国民が「知る権利」を奪われるのであれば、してやったりでしょう。

今のメディアはそういう意味で、犯罪に加担しているも同然だと思います。


放送系のニュースメディアは、国会の間や選挙の期間中は、どんなことがあってもトップニュースで国会や選挙の問題を一定時間取り上げるようにすべきであって、ニュースバリューでこれが後回しになるようなことはあってはならないと思います。

その理由は、国民に政治的な関心をもってもらうとか、そんな上っ面の話ではなく、「政治的な問題から国民の目をそらすために犯罪を起こすというテロ行為が起こりかねないから」という一点に尽きます。

冷夏

今年はどうも冷夏になるみたいで、「令和の米騒動」が起こるんじゃないかという見通しが立っているようです。

どうしてこんな時期にもう冷夏の見通しが立つのか不思議なんですけど、どうも調べてみると、1945年の太平洋戦争の終わりの年もたいへんな冷夏だったそうで、そのときも早々に米の収穫が危ういという見通しは立っていたそうです。

おりしも満州からの食糧供給も断たれ、本土決戦をしている日本で、頼みの綱の国内の米が凶作になるというのはたいへんな事態でした。

つまりその年の米がどうなるかというのは、けっこう早めに予測できてしまうことのようです。


とはいえ、昔と違って今の日本は北海道から九州まで、その土地の気候特性に合った多様な品種が作られています(沖縄は米の作付けが少ないようです)。

そういった中で、1993年と同じような悪天候に見舞われても、1993年と同じようなコメ騒動の様相を呈するのかどうか、現代の物流や米作りの知恵が試されているように思えます。


ちなみに1993年当時は、米が足りないからというので東南アジアからお米を輸入したんですが、もともと日本人になじみの薄いインディカ米で、「タイ米はまずい」と散々に酷評されて、あちこちで捨てられていたり、10kg1000円なんて値段で投げ売りされていたりしたものです。

さすがに「あれはいくら何でも送ってくれた国々に失礼だ」といって子供心に腹を立てたものですが、しかし実際インディカ米をどうやって美味しく食べるのかがわかっていなかったうちの家族も、なんだか途中で食傷気味になっていたのは覚えています。

古本三昧

最近はブックオフオンラインなる古本の通販サイトがあって、1500円以上買うと送料も無料。非常に便利です。

Amazonで中古を買うより安いし、田舎にいると大型の古本屋まで片道30kmも走らせねばなりません。

それで、ブックオフオンラインで、めぼしい本はお気に入りに追加して、ある程度溜まったらその中から送料無料になる程度の本を選んで買う、というようなことをしています。


それで先日買ったのが、司馬遼太郎の「この国のかたち」全6巻と、水木しげるの「日本妖怪大全」。

日本妖怪大全は分厚い文庫で、何せフォントが小さいのが残念でしたが、老眼鏡をかけながらちまちまとみています。

子供の時だったらこの大きさの本でも難なく読めたのになあ。

本が小さいという難点をのぞけば、おどろくほど細かい背景の質感と情緒、文章のユーモアに引き込まれます。


司馬遼太郎の「この国のかたち」は、これから読んでいくところですが、ぼくは40になってから司馬さんの著作に触れるようになりました。

それでいちばんおどろいたのが、1960年代に書かれているような著作でも、文章が非常に平明でわかりやすいんですね。

それでいて文章の骨格がしっかりしている。

当時は学生運動をやっているような時代で、三島由紀夫と全共闘の論争のようすなどを見ていると、何せ言い回しが難解で、それもわかりやすく言おうと思えば言えるものを、わざと難解に変換しているんですね。

これは戦後の知識人のクセみたいなもので、どこからこういうしぐさになったのかわかりませんが、ともかくみんな極端にむずかしい言い回しに取りつかれていて、近代文学はこういうところでずいぶん足をとられていたと思います。

あれは読者を選別したかったのか、なんだったのかよくわかりませんが、当時の文壇でも「わかりにくいことをわかりやすく、わかりやすいことはより深く」という動きはあって、1990年くらいから徐々に、これまで難解さがウリだった作家も平明な文章を書くようになってきたと思います。


それで、ぼくは司馬さんもきっと戦後文学者としてそういう難解な文章を書いているのだろうと思ったら、おどろくほど読みやすいんですね。

それでいて、歴史理解はものすごく、人間理解は深く、社会思想も明快で、そりゃあこれは日本人をトリコにするわけだと、遅ればせながら納得している次第です。

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