『時計じかけのオレンジ』論

大学にいたころ、英語の授業でアメリカ人の先生がいて、どんな映画が好きかたずねられたときに、『時計じかけのオレンジ』だと言ったら、顔をしかめて”Crazy movie”と言われました。

当時はスタンリーキューブリックの特徴的な映像世界と、これまた特徴的なバイオレンス描写の親和性に惹かれていたのですけど、あまり社会思想的な面からの感動というのはなくて、ただしかし、何か非常に訴求力のある映画だなというのは感じていたわけです。

それで、最近Amazonプライムでこの映画が観られるというので、学生時代以来20年ぶりに鑑賞してみたら、いろいろと新しい気づきがあったので、ここで一度、時計じかけのオレンジ論なるものをぶってみようじゃないかと思ったのです。

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主役は、アレックスではなく「社会」である

この映画の主役は、きわめて残忍で暴力的な主人公のアレックス……ではありません。

この映画の主人公は、実はアレックスを取り巻く社会です。

われわれはアレックスを絶対的な悪党、純然たる悪の主人公として見てしまいますし、おそらくほとんどの人はそういう見方から離れることはできないと思います。

けれど、じつは「きわめて残忍で暴力的」なのは、アレックスではなく、終始一貫して社会の側です。

アレックスは反社会でした。これはもう、まごうことなく、社会になじめず、社会に反発し、社会をからかい、社会を蹂躙するアナーキーな青年です。

暴力、性暴力、そしてとうとう、殺人まで犯してしまい、刑務所でもその反社会的な性格は治らず、最終的に彼は「非人道的な医療」によって強制的に性格を矯正させられます。

すなわち、暴力やSEXに対峙すると吐き気を催してしまうという性質に変えられてしまう。

ところが、暴力が封じられたことによって、社会復帰したアレックスはこれまでかかわってきた社会から、苛烈な仕返しを受けることになります。

アレックスは反社会を体現したような青年でしたが、かならずしも社会の側が善良で、彼が悪だったというわけではない、というのが、彼を待ち受けていた試練です。

当初アレックスは親元に帰った時に、弱者と化した彼を受け入れてくれるかもしれないと期待していたのだと思いますが、そうではないことを痛感します。

親はもう、アレックスが刑期の間は帰ってこないものとして、新しい住人にアレックスの部屋を貸していたし、帰ってきたアレックスに親は当惑し、あげく家から追い出してしまう。

社会の中でもっとも自分に近く、切り離しがたい「家庭」というグループから裏切られたアレックスは、広域の社会に放たれ、今度は自分がこれまでいじめていたホームレスからもいじめられてしまう。

さらに、これまで暴力で従えていた友人たちも成人すると公僕として警察官になっており、社会正義とされる彼らからも徹底的な暴力を受けます。

アレックスがこれまで蹂躙してきた社会は、決してただひたすらおとなしく善良だったわけではなく、「アレックスらしさを封じようとする暴力」に満ちた世界でした。

だからこそ彼は知らず知らず、自分に向かってくる社会の暴力をより強力な個人的な暴力で抑え込んでいた、というわけです。

しかしアレックスが暴力を使えなくなったことで、今度は社会の側が報復という正義の名を借りて、アレックスに暴力をふるうようになります。

アレックスはこの暴力に耐えられず、自殺を試みますが、失敗します。

ひどい大怪我を負って病院に担ぎ込まれるのですが、それによって今度は「非人道的にアレックスを洗脳したのは問題だった。アレックスを洗脳した医師たちこそが彼を自殺未遂に追い込んだのだ」という世論が巻き起こります。

そうするとアレックスを追い出した親が病臥の彼のもとにやってきて、謝るのです。そこでわかるのは、アレックスの親は、一見やさしいいい親のようでいて、単なる優柔不断な、社会の傍観者、追従者に過ぎないということです。

アレックスが社会になじめないうちは彼を持て余し、社会がアレックスは悪だといえば彼を疎んじ、社会がアレックスは被害者だといえば彼を哀れみ受け入れようする。

社会に隷属する親と、社会になじめぬアレックス。絶対的に親には子供であろうとするアレックスと、アレックスが社会の一員であるかどうかによって判断を変える親。

しかしアレックスはそういった、カメレオンのように色合いを変える社会を理解するにはまだ幼かったようです。

アレックスは自殺から失敗して入院した際に、脳をいじられて元の悪童に戻りました。

そんなアレックスの元に政治家がやってきて、彼を懐柔します。社会に復帰する際の仕事も保証し、不自由のない暮らしを約束するというのです。彼はすんなりと懐柔されてしまい、そして政治的な広告塔として使われます。

社会にあれだけ強く反発し、犯罪行為を繰り返していたアレックスは、反社会的な性質に戻ったと同時に、これまで忌み嫌っていた「社会に取り込まれてしいまう」のでした。

京アニ火災で死ねなかった青葉真司

この映画をみてふと思い出したのが、京アニの火災事件の犯人とされる青葉真司が、大やけどを負って生死の境をさまようものの、病院の治療によって息を吹き返したという一件です。

青葉真司はとんでもない反社会的行為をしましたが、社会は彼を治療したうえで、そして社会罰を与えるという、おそるべき正義の鉄槌を振り下ろします。

ふつうに考えると、アレックスが社会復帰したときのように、青葉真司は徹底的に個人的な恨みからリンチされて、見捨てられてもおかしくはない、と思います。

けれど、彼は治療された。

彼はおそらくこれから体力が回復すれば、あらためて法にさばかれて死刑宣告を受け、そして社会によって殺されるでしょう。

そこには、人間社会の「反社会行為を犯した人間を、自殺して終わらせるなんてことはしない」という強烈な意志が感じられます。

青葉真司とアレックスは似ても似つきませんが、完全管理社会へ向かおうとする今の社会に関しては、あの映画作品ととてもよく似ているように思えるのです。

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