お互いに一途であることの大事さについて

なんだかぼんやりとした今回のタイトルについて、どう説明すべきか考えてるんですが、あんまり直接的に言うのもおもしろくないので、少し婉曲にダラダラと書いてみようかと思います。

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『万引き家族』という映画があります

この映画にはある家庭が描かれてるんですが、家族を構成しているのはみんな他人同士なんですね。

社会という枠組にはまることができなかったパズルのピースが、その枠組からはずれたところで、そもそもくっつきようのない形をしているピース同士でくっつこうと努力しながら結びついているわけです。

彼らはいちおう仕事もしていて、食っていけないというわけではないんですが、万引きという形で、社会からものをくすねています。

どうしても、というほど切羽詰まっているわけでもないのに、万引きをする。

ああいうしぐさに対してぼくは、彼らは社会からはみ出した人たちだけど、社会という枠組にあこがれているんだろうな、と思うのです。

好きな女の子に、わざと嫌がられるようなことをする男の子の心境がいちばんわかりやすいたとえかなと思うんですけど、社会は彼らを一員として認めようとしない。

そこで、社会に対する憧憬が万引きという形であらわれてしまう。

ほかにも、楽して金を得ようとするような金に対するきたなさは、この家族の大人たちに一貫しています。

ふつうに考えれば、そういった卑俗な共通項によってつながるコミュニティなんてないだろうと思うし、そこはフィクションの世界の極端さだと思うけど、それでも彼らを家族たらしめていたのは、唯一「一途であった」という点です。

そこには家族の普遍性があります。

彼らは他人同士のかりそめのコミュニティを形成しているわけですが、それゆえにほんとうの家族と同等以上の一途さでつながろうとします。

もともとはまりようのないパズルのピース同士がつながって、その形を維持しようとすれば、もう相手に対して一途で、ひたむきであるしかない。

終盤、この家族は社会によって「まるで当然のように」ばらばらに引き離されてしまいますが、離れ離れになってなおお互いを思う一途さが残っているところが心を打ちます。


さて、少し話をおかしな方向へねじまげますが、ぼくはふとこんなことを想像します。

もし、あの映画でリリー・フランキーや安藤サクラのどちらかが浮気性だったら。

いちばんわかりやすいつぶし方だと思うんですが、その瞬間、あの家族をつないでいた一途さは雲散霧消して、ただの陳腐な疑似家族の物語と化すどころか、おそらく家族としてのつながり自体が成立しないことでしょう。

一途さと枠組

ぼくは最近、人間同士が好き同士であるために唯一必要なのは、一途さだと思うようになりました。

金がなくても、自分がいかにダメなやつでも、相手に対してお互いにひたむきであればいいのではないか、と。

しかしぼくのようなひとり暮らしであまり社会と接点のないところで暮らしている者は、実家に帰ったとき以外ではインターネットくらいが社会との接点です。

そうすると、電脳の画面の中にいる人々は、イデオロギー(社会思想)だとか、アイドル(偶像)などに対する絶対的な一途さはひしひしと感じるのだけど、家族のことになるとみんな不満をかかえていてそれをぶちまけてるんですよね。

「うちの旦那はああでこうで」

「うちの嫁のこういうところがどうでそうで」

「うちの子供は性格がああだからこうだから」

結局、社会の形式としての家族という強固な枠組の中にはいるけども、人間同士の気持ちをつなぐための一途さが稀薄なんです。

社会的な枠組みだけを頼りにして、人間同士はいがみあってるのです。

それで本来家族に向けられるべき一途さは、家族とは別のところに向けられていて、むしろそういったものが個々人の心のよりどころになっている。


社会が作り上げた強固な「家族」という枠組が、あまりにもわれわれの中で当たり前のものになっているために、そこを意識せずに男女が自由恋愛をすると、うまくいかないことが多いですね。

付き合い始めは相手をつなぎとめておく枠組がないから、一途さでつなぎとめようとすることでうまくいくんですが、そのうち付き合いが長くなると「疑似的な枠組」を形成します。

そうすると、ふだん社会が形成した家族という強固なコミュニティに慣れきっているものだから、もう無理してつなぎとめなくても枠組の中から出ないだろうという安心感で、相手を一途に思うこともなくなり、依存しあう関係になることが多いのです。

でも、結婚しているわけでもないのだから、そこをつなぎとめているのはあくまで疑似的な枠組です。

一途さを与え合う関係でなくなれば、不平たらたらになって、そのうちあっさり関係が終わってしまう。

最近はそういった自由恋愛による枠組のない出会いと別れとが、実際に社会で形成された結婚という枠組を侵食するようになってますね。

つまり、たとえ結婚していても離婚という形で枠組から抜け出してしまう。

もちろん、たとえ結婚していてもお互いを思いやれないのであれば関係を続ける必要はないわけですが、結婚という枠組が現代では非常にもろくなってしまいました。

現代では結婚しても3割がたが離婚するというのだからタイヘンです。


人間関係をつなぎとめておくために、「社会」という枠組、「家族」という枠組、という形でその中に入って生活すると、多少自分という人間が逸脱していても、それを受け止めてくれるコミュニティがあるから安心です。

多少相手に文句があっても、相手によりかかるような生活をしても、「家族なんだから」ということで許されることも多々あるはずです。

でもいちばん根っこの部分に「わたしもあなたもお互いに一途に思いやる」という考え方がなければ、人間関係はどうしたってうまくいかないのだな、と。

まあ。

つまりぼくは最近、そんなことをつらつらと、田舎で一人暮らししながら考えていたというわけです。

ここまで書いて、そういうことは円満な家庭を築いてから言えよ、と思ってる自分がいます。

ひとりでのんびり暮らしてりゃ、そりゃいくらでも理想論を語れるよね、という自己批判もしております。

いやはや、頭で考えてることに行動が追い付いてないんだなァ(´Д`)

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