ぼくへの贈り物

今朝、突如としてある考え方が頭をよぎりました。

「ああ、もうゆるしてあげよう」

と。

ある人を、ゆるしてあげようと思ったのです。

それは、獄中の殺人犯に対して遺族が「あなたをもうゆるしてあげる」と手紙を出す、というような性質のものではありません。

その場合は殺人犯の心の枷がはずれることになります。

けれどぼくの場合は、ぼく自身が解き放たれるために、相手をゆるそうと思ったのです。

相手は別にぼくからゆるされることなど望んではいないし、そもそもそんなふうには考えていないだろうと思います。

つまり、これはまったきぼく自身の案件です。

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ゆるしの経路

ぼくが相手をきちんとゆるすためにはひとつの課題があります。

「もうその人とは一生接点を持たないこと」です。

これまでもすでに関係はこじれていましたが、ぼくは関係改善の一縷の望みもあるのではないか、とあれこれ模索していました。しかしその道中は常に愛憎が火花を散らすようなものでした。

相手を慮る気持ちと、相手を憎む気持ちががっぷり四つで取り組んでいるような状態で、ややもすると憎しみが心を支配することもありました。

もちろん逆に、いつくしみの気持ちが心を満たすこともありました。

そういう心の動きはいつも相手次第で起こるのですが、それはもしかしたら、相手にとっても同じことだったかもしれません。

そして今朝、「もうゆるしてしまおう」と決めたのです。

そのかわり、もう一生その人とかかわりになることはないでしょう。

今までと同じ距離感にあれば、これまでと同じようにさまざまな感情を自分の心の中で戦わせることになるからです。

ところで先日、野球選手のダルビッシュ有さんのアカウントの紹介文をみかけたのですが、そこにはこう書かれてありました。

弱い者ほど相手を許すことができない。 許すということは、強さの証だ。

これ、ぼくは文面をそのまま自分に当てはめることはできませんでした。

この記事の最初に殺人犯と遺族のたとえを出しましたが、ダルビッシュさんの言葉はまさに、他者の心の枷をはずすためのゆるしのことを差しているのでしょう。

しかしむしろぼくの場合は、自分が楽になるために相手をゆるしたのだから、ダルビッシュさんのおっしゃる意味合いとはまったく逆の格好になります。

ぼくは自分が弱く、相手を受け止める度量がないから、相手をゆるしたのです。

ぼくは、延々と続く果てしない心の戦いを終わらせるために相手をゆるし、自分の心にあたらしい風を吹き込むために、相手をゆるした。

それでも憎しみにとらわれることを自分から断ち切ったことは、あるいはぼく自身の一種の強さといっていいかもしれません。

ぼくへの贈り物

病気の名前とその治し方がわかれば具合がよくなるのと同じで、ぼくは今、自分の感情の整合性がとれて、その整理がついたことで、ずいぶん気持ちが楽になっています。

心がとらわれていた昨日までとはたいへんな違いです。

おそらくこれからぼくはまた、今まで以上に元気になることでしょう。

あなたをゆるし得たことは、ぼくへの贈り物になったのです。

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