自分をきちんと肯定するコツについて

「あなたのいいところとわるいところを3つずつ自己紹介してください」

という問いかけがあると、ぼくはいつも自分のわるいところは3つといわずいくらでも思い浮かぶのだけど、自分のいいところがちっとも思い浮かばないのです。

自分のいいところを自分で紹介するということが気恥ずかしい、という思いも強いのですが、それ以上にほんとうに、まったく思い浮かばない。

どうしてここまで何も思い浮かばないのだろう、と不思議になるくらい、思い浮かばないのですよ。

何か、強い暗示で心にロックでもかかってるのか、と思うほどです。

今どきの言い方をするなら、「自己肯定感が弱い」ということになるのでしょう。

それでとうとう「自分のいいところを見つけられない」ことで悩んでしまって、コンプレックスになっていたのだから、もういよいよ末期症状です。

そんなぼくが、ふと自分のいいところをみつけて、ああそういうことなのか、と突然腑に落ちたのです。

今日はそんな話をしてみます。

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きれいはきたない、きたないはきれい

ぼくのいいところは、「よく考える」ということでした。

それはあるいは、石橋をたたいて渡るという点でわるいところでもあるんですけど、ぼくの考え事を好むくせは、少なくとも自分にとってはいいことなんだと思います。

なんだ、自分にもいいところがあるじゃないか、と安堵したところでふと気づくわけです。

ぼくがこれまで自分のわるいところだと思っていたことは、じつはいいところだったのではないか、と。


「背が低い」=別に身長の高低など、いいところでもわるいところでもないし、どんなものでも個性は自分を生きるうえでは宝物である。

「地頭が悪い」=ほんとうにそれはわるいところなのか。それじゃあいったいどこまで賢くなれば、満足できるのだろう。自分の持っている脳や神経のありようは変わらないのだから、地頭がわるいと悩んでいる時点で、もっとよくなろうと向上心があるという意味ではいいことなんじゃないのか。

「太ってる」=健康でなければ太ることもできないのだし、美味しい食べ物がある時代に生まれなければ食べる幸せを享受することもできない。いい時代に生まれてよかったじゃないか。太っててわるいところもあるけれど、太ってていいところだってある。別にかならずしもわるくとらえることはない。

「くよくよ悩む」=悩み事を抱えることで心は不快かもしれないけれど、悩みがないよりははるかにいい。悩みがない、というのは人間として生きる上での怠慢であり、傲慢である。悩み事がないと成長が止まる。悩み事は探してでもすべし。悩むのはよいことだ。

「不健康である」=人間の健康などはかないもの。人間の健康を優劣で語るのはとてもおそろしいこと。それをわるいこととしてとらえるのは、知らず知らずのうちに、優生思想の入り口に立ってるようなものじゃないか。健康であるかどうかははいいことでもわるいことでもなく、ただの宿命である。不健康であるからこそ、他人のカラダのつらさもわかってやることができてるんじゃないのか?


なんだか屁理屈をこねてディベートしているような気もしないではないんですが、実際、自分がわるいところだと思っていたところは、ひっくり返せばいいところともいえるのでした。

けれど他人がみれば、「背が低い」とか「頭がわるい」とか「不健康だ」というのは、わるいところのようにみえるでしょう?

そういうことをあげつらって笑いにするようなこともよくあることです。

だからぼくはずっと、自分に与えられた特徴はわるいところばかりだと思い込んでいました。

けれどそれは、他人がみればそう思うだろうと勝手にぼく自身で忖度して、「だから自分のわるいところだ」と決めつけていたわけです。

むずかしい言い方をすれば、自分の個性を相対的に解釈していたわけです。

けれどほんとうは、自分という人間は絶対的なものです。


人間はみんな風邪をひくでしょう。

けれどぼくがひいた風邪は、すくなくともぼくという人間を生きている以上、ぼくだけのものです。

「人間は風邪をひく」

ということと、

「ぼくが風邪をひく」

ということは、同じことのようでいて、じつは明確にわけて考えなければいけないことだったんです。

もちろん、「ぼくがひいた風邪は、人間がひく風邪とはちがう」ということではないですよ?

「ぼくはみんながひく風邪と同じ風邪をひいた。しかし、自分が今感じている風邪の症状は、ぼくにしか感じられぬものであり、それをどのように感じたかということは、ぼくだけのものだ」ということなんです。

まわりの人が、「風邪をひいたらカラダがしんどいし、くしゃみが出るでしょう」と言ったとします。

それでぼくはこれまで、「なるほど、風邪をひいたらカラダがしんどいし、くしゃみが出るのだ」と思い込んでいたとします。

けれど実際には、ぼくは風邪をひいてもそれほどカラダがしんどいとは思っていなかったし、くしゃみは出なくて鼻水ばかりが出ていたという場合。

ぼくはそのとき、「世の中は風邪をひいたらカラダがしんどくてくしゃみが出るというけど、わたしの場合はカラダはしんどくないし、くしゃみではなく鼻水が出るのだ」と言ってよかったんです。

あるいはもう少し思慮深くとらえるのであれば、「どうしてまわりの人は風邪の感じ方が自分のとは違うのだろうか」ということを掘り下げていけばいい。

同じように、「世の中の人は背が低かったり頭がわるいことをよくないことのように評ずるが、わたし自身はそれをわるいことだとは思わず、むしろいいことだととらえている」と主張するのも、問題なかったというわけです。

そして、人間の特徴をあげつらって笑っているような人たちに向けても、「あなたがたがどう思うかということにも興味はあるが、わたしは自分のことをいいところだらけだと思っている」と主張してもよかったんです。


シェイクスピアの作品『マクベス』に、「きれいはきたない、きたないはきれい」という言葉が出てきます。

この物語の冒頭では3人の魔女があらわれます。そして「きれいはきたない、きたないはきれい」という謎めいた言葉を残すのです。

この物語の骨子は、主人公であるマクベスが主君に叛逆して殺し、王位を奪って暴政を敷くのですが、結局その暴政による報いを受けて滅亡する、というものです。

「きれいはきたない、きたないはきれい」の言葉の意味は、直接言い換えると「あなたがきれいと思っているものは、ほかの誰かにとってはきたないと思うことであり、あなたがきたないと思うものを、ほかの誰かはきれいと思っている」ということです。

さらに言い換えれば、「あなたがよいことだと思ってしたことは、ほかの誰かにとってはわるいことだ。あなたがわるいことだと思って排除したことは、ほかの誰かにとってはよいことだ」という意味にもなります。

それはマクベスの人生の栄光と転落を暗示する象徴的な言葉となります。

マクベスがよいことだと思ってしたことが誰かにとってはよくないことで、マクベスが悪いことだといって断罪したことが、ほかの人のうらみをかう。

しかし結局「きれいはきたない、きたないはきれい」だとわかっていても、その言葉がなにをどう暗示しようと、マクベスは「じゃあもっと謙虚に生きようか」なんてことは考えず、どこまでも自分の正しさに依って生き、正しさによって滅んだのです。


イタリアのピサには斜塔があります。

これは、ある角度からみれば「右に傾いている」ようにみえます。

それである人は、「ピサの斜塔は右に傾いていた!」と叫びます。

けれど、その人の向かい側から斜塔を眺めた人は、ピサの斜塔は「左に傾いている」ようにみえる。

そして「なにをいうか。ピサの斜塔は左に傾いていたぞ!」と叫ぶのです。

ところが彼らのはす向かいからピサの斜塔を眺めていた人は、「ちょっと待ちたまえ。きみたちはこの塔が傾いているというけれど、傾いてなどいないじゃないか。けれど、自分に向かって落ちてくるように感じるぞ!」と叫んだ。

それである人は、ピサの斜塔のぐるり一周をまわってみて、こういうわけです。

「ピサの斜塔は、右にも左にも傾いているし、自分に向かって落ちてくるようにも感じる。つまりながめる角度によって違いはあるが、総じてピサの塔は傾いている」


このピサの塔のたとえに関しては、多くの人が最後の人の意見がまっとうだと思うでしょう?

けどぼくは、こう言います。

「最後の人はピサの塔を丁寧に眺めたのだから、おそらくただしいことを言ってるんだろう。でもわたしは、右に傾いている様子しか見ていないから、わたしにとってはピサの塔は右に傾いていたのだ!」

と。

正しいであろう客観的な意見と、自分という人間が感じたことを、同一に考えないということです。


冒頭でぼくは、「あなたのいいところとわるいところを3つずつ自己紹介してください」という問いかけをしましたが、その答えは、「自分のよいところもわるいところも、コインの裏表のようになっているのだから、両面をのぞけば答えがある」ということになります。

ぼくの場合、「くよくよ悩みがち」ということをひっくり返して、「よく考えてものごとを決める」ということで、よいところとわるいところがひとつずつ。

「カラダが弱い」ということは、「人の弱さをおもんぱかることができる」ということでもあります。

「頭がわるい」ということは、「常に今よりも賢くありたいという向上心がある」ということになる。

それで、いいところとわるいところがそれぞれ3つずつになりました。


他人の意見、客観も大事なことだけど、じつはいちばん大事なことは、自分が何をみているのかという主観です。

いかにただしい客観を示されても、それはあくまで自分が生きる上での指標にすぎず、自分の人生は自分のものなのです。

今の社会ではインターネットなどでとてつもない集合知が活用されています。

自分がちょっと憶測でものをいえば、「お前の意見はみんなが言っていることとは違う!」といって叩かれるような時代です。

そういう中で自分がまわりの意見に埋没するのは、無理のないことだと思います。

けれど少なくとも心の中でなにを思うかということに関しては自由ですから、このように考えます。

「みんなの賢さには脱帽するばかりだ。世の中ではいろんなことが起こっている。きっと自分の耳目に入ってくるみんなの意見はほとんどはただしいと思うし、尊重したい。けれどそれは自分がつぶさにみたものではない。だからわたしはいろんな意見も大事にしながら、結局はわたしがみたことや経験したこと、感じたことをいちばん大事にしたい」と。

おそらくまわりの人たちはぼくのそういう態度に、「せっかくただしい(であろう)ことを教えてやってるのに、おまえは頑固で、世の中の空気を読まないのだな」と思うことでしょう。

けれど、自分をただしく肯定するためにはやっぱり、まず自分の主観をいちばん大事にして、自分の感覚をかわいがることが必要だと思います。

つまり、ここで結局、とても単純な場所に帰ってくるんです。

「人の言うことばかりに流されないで、自分を生きましょう」

と。

そういう態度でいれば、ことさら自分のことを過大評価もせず、かといって過小評価もせずに、等身大の自分を肯定しながら生きていけるような気がする今日この頃です。

まあ、人に流されずに生きるって、ラクなことではないと思いますけどね。

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