受容の話

ここ最近、書くということに対して、リミッターを解除しています。

このブログはこういうテーマでやっていますとか、検索順位を上げるためにああしようこうしようとか、そういう制限を一切取っ払って、ともかくなんでもいいから、自分の頭の中にあるものを引っぱり出すようにしてものを書いています。

今はちょうどそういう時期だと思ってます。

それはたとえるなら、地面から出ている無数の芋づるのような紐から、一本を選んで掘り出して、どんどん引っ張って、中身を確かめていく作業のようです。

手段をえらばず、あるときは手で土を掘りだし、あるときはブルドーザーで掘り上げて、あるときは力任せにヒモを引っ張り、あるときは掘り上げるのをあきらめたりもする。

そうやって土から出現してきたり、こなかったりする「なにか」は、ぼくの頭の中にある世界以外のなにものでもないわけですが、掘り上げてみるまで自分自身にも得体のしれないところがあります。

そういう自分の世界の地中にあるモノを引っ張り上げていく作業を、「書く」という形でやっています。


このブログは当初、田舎暮らしの楽しさを伝えるというテーマで始めましたが、あるときにとあるコミュニティに所属してからは、自分を表現することに主体を置くようになりました。

その時点でこのブログはテーマを失っていて、「趣旨がわかりにくいブログ」になってしまっています。

ただ、田舎暮らし以外のことを表現することで、コミュニティからレスポンスが返ってくることは楽しかったし、そういう方向性の定まらない表現でもいいじゃないかと最近は開き直っています。

しかし半年近く前、ぼくはすっかり元気を失って、コミュニティからぬけてしまいました。

この時期には、いろいろなしんどいことが重なったのです。

今日の話は、ここからが本題です。

今となってはすべてを冗談めかして話すこともできますが、そのときのぼくにはひとつひとつの出来事が重い枷となって、心に沈鬱な影を落としていたのでした。

それで、心の整理がつかないまま毎日を送っていました。

もともとぼくは考え事に時間がかかるタチなので、こういうことは一朝一夕に整理がつかないのです。

それで11月に入って農閑期に至るまで、なんともいえないモヤモヤをずっと抱えていましたが、最近になって、「もういいや、ぜんぶ許して、自分のことも許そう」といってサジを投げたら、なんといっぺんに気分がラクになりました。

どうしてそんなことでラクになったのかというと、これまでぼく自身でも言葉に説明することができなくて、感覚的、経験則的に理解しているだけでした。

でも、つい最近、とつぜん、こういうことだったのか、とわかったことがあります。

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受容

後天的に身体に障碍を負った人や、不治の病を得た人は、自分の置かれた状況を受け止めるまでに「受容の過程」を経るのだそうです。

その段階は、このようになっています。

  1. 否認
  2. 怒り
  3. 取引
  4. 抑うつ
  5. 受容
  • 最初は自分の置かれた状況が信じられず、認められない。
  • そして次に、自分の置かれた状況に怒り、抗う。
  • 自分の大事なものを差しだしたり、神仏にお祈りしたりすることで、自分の置かれた状況から逃れようとする。
  • 結局、どんなに抗っても問題は解決できないと知って、深く悩み、落ち込む。
  • もはやこれまでだと悟ったときに、ようやく自分の状況をあるがままに受け止め、心の平安を得る。

ぼくはこれは、自分が社会の中で今までのように暮らせなくなるとか、もう命がいくばくもない、というような極限状態で起こる心の動きだと思っていました。

実際にこの受容の仕組みを学んだときにもそのように説明されましたし、これはもともとは「キューブラー・ロスの死の受容過程」というもので、アメリカの精神科医であるキューブラー・ロスが死を前にした人を前提に発表した考え方です。

なので、どこかこの受容の過程に対して、他人事というか、いずれ自分にも訪れる試練なのだろうけど、今はまだ自分の問題ではない、と思っていたんです。

ところが、どうも今般のぼくの心のうごきをたどってみると、ぼくはこの受容の段階とまったく同じ道のりをたどりながら、気持ちを切り替えたのだということに気づきました。

そして興味深いと思ったのは、ぼくはずっと、いちばん最初の否認の状態を抜けてからは、怒りと取引と抑うつがずっと一緒くたになった状態で苦しんでいたのです。

自分の置かれた状況が認められない、という段階は比較的すぐに通り過ぎます。どうしたって直視せねばならないのだから、直視します。

けれど、そのあとの感情は、段階を経て訪れるのではなく、同時進行でランダムにやってくるのです。

どうして思うようにいかないんだといって怒りにとらわれ、なにかを差しだしたり、なにかに祈ったり、仕事に埋没したり、まったく別の何かに心を砕いたりして、ごまかしたり努力したりしながら、自分の思うようにならぬものかと抗う。

で、何をやっても結局思うようにはいかないのだといって落ち込む。

落ち込んだあとには、どうして思うようにいかないんだといってまた怒り、やっぱりダメなんだなと落ち込み、それでもどうにかならないものかといって祈り、なにをどう貢献すればいいのかと悩み、でやっぱりなにをやっても無理なんだと落ち込み、また怒り……。

エンドレスでこの3つの段階の苦しみが時には別々に、時には一緒くたになって襲ってくるわけです。

それで、たまに受容の足掛かりをつかんだように、「もういいや。なにもかもを許そう」という境地に達しそうになるのですが、やっぱり足を引っ張られて、怒りにとらわれて、もとの逡巡に戻る。

そんなことを、おおむね半年近く繰り返していたのだから、ずいぶん長い時間かかったものだと思います。

そのかわり、ぼくは自分の心の問題が今こうやって言葉で説明できるようになりました。


つまり、受容の段階で起こる苦しみは、程度にかかわらず、人間何か不満があるときはどんなときでも起こっているんですよ。

べつに極限状態になくても、だいたいいつでも常にそういった心の葛藤は起こっていて、なにか思うようにいかなくて行き詰っているときには、怒ったりなだめすかしたり落ち込んだり、ということを繰り返してしまう。

それで、ある瞬間とつぜん、喉のツッカエがとれるかのように、腑に落ちる。

「もうしかたない。もういい。やれることはやった」

といって、ラクになる。


われわれはいつでも小さな問題でも大きな問題でも、受容にいたる手前でモヤモヤしてるのだ、という視点でまわりをみてみると、理解できることがたくさんあります。

小さな子でさえ、自分の買ってほしいモノを買ってもらえない時に、ぎゃんぎゃん泣きわめいておねだりをし、結局親からめちゃくちゃに怒られて、見捨てられそうになり、挙句買ってもらえず、なにをやってもダメなのだと悟り、真っ赤に目を腫らしながらあきらめるという受容の過程を経ているではありませんか。

そもそも、怒りの感情がわいた時点で、われわれは少なからず受容の過程を経ながら解決を模索するのだと思います。


そういえばぼくは、この半年モヤモヤしてる間、特にストレスのたまる時期には政治的な問題を考えたり話したりすることが増えました。

あれは思うに、無意識的にモヤモヤの本質を政治問題に置き換えていたんだと思います。政治問題も感情的にこじれがちですけど、あれは自分のプライベートな話とちがって、おおっぴらに叫びやすいでしょう(笑)

だから今ほんとうに行き詰まってる自分の問題はいったん置いといて、とりあえず同じようにモヤモヤしてる政治問題に気持ちを持っていけば、そっちはなんとなく自分なりの正義でカタがつくし、感情を発散しやすい。

なるほど、不況になって生活に不満が出るようになると、イデオロギーの対立が激化して、排他主義に偏りやすいというけど、それはこういうことなのかもな、と自分の身をもって感じた次第です。

受容しやすいこと、受容しにくいこと

夫婦げんかでよく言うでしょう。「どっちが正しいか争うんじゃなくて、とっとと謝ってしまえば丸くおさまる」と。

あれはなんというか、はんぶんは思考停止で、はんぶんは負けるが勝ちの精神ですね。

「どうでもいいから謝っておこう」とやってしまうと、感情面では落ち着きますが、問題をきちんと解決するためにはその態度じゃいけない気もします。

でも実際にはお互いに苦しむのを避けよう、というやさしさのあらわれでもあるわけでしょう。

相手に対して怒った瞬間、次にはそれを解決するために取引をおこない、それがダメなら落ち込んで、また怒り、という無限ループに入る。

どちらも自分が正しい、折れるつもりはないという場合、ほんとうにこの苦しみが延々と続くのです。

別の話でもたとえます。

冤罪事件で濡れ衣を着せられるというような場合は、夫婦げんかのようにカンタンに謝っちゃうわけにはいかないから、戦います。そうするとやっぱり、怒りと取引と抑うつをどこまでも繰り返さねばならず、つらいんですね。

そんなときに刑事が「ぜんぶ自白してラクになっちゃえよ」といって懐柔するという定番のシーンがありますけど、あれはことの本質は無視して、ともかく受容してしまえというわけです。

そうすれば、確かに気持ちはラクになるでしょうね。

もうひとつ、別の話。

これはぼくの近しい間柄の人に起こったことですが、その女性は晩婚にして子供をさずかったんですが、しばらくして子供の身体に障碍のあることがわかった。

それまで人並み以上の子に育てたいと教育熱心にがんばっていたぶん、落ち込んでしまって、障碍があるとわかった日には悲観のあまり、子供と一緒に死のうとすら思って、子供を抱きしめながら泣き叫んだそうです。

結局彼女は長い時間をかけて、理解ある家族や社会の協力を得ながら、少しずつ立ち直っていきました。今では子供もすこやかに育ち、彼女もまた自分の置かれた環境に順応して、穏やかに日々を過ごしています。

こういう場合は、夫婦げんかを解消するように誰かに折れて、謝ってすませるわけにもいかないし、かといってなにかと戦って解決するような問題でもありません。かといってカンタンに落としどころがみつかるような話ではないので、自分の心が受容するまで、長い時間つらい思いをせざるを得ません。

死の受容もそうですが、いったんどうしても、受容の手前で苦しみ抜かねば、心の居場所が得られない場合もあるのでしょう。


重苦しいことを長々と書きましたけど、結局なにが言いたいのかというと、どれほど自分の思うようにならぬことで苦しみ、葛藤しているときも、「この真っ暗闇のトンネルにはどこかに出口がある」ということです。

どんなに納得のいかないことでも、たとえ死を前にしてさえ、受容による心の平穏はいつか訪れる。

それは時間が解決してくれるという「時薬」にも通じる考え方だと思います。

今回の経験でぼくは、もう少し自分もふくめて、いろんなことを許すためのハードルを下げて、ゆるくあれるところは極力ゆるくあっていいんじゃないかと思うようになりました。

きっとそういう考え方は、他人にとっちゃ少々迷惑をかけるかもしれませんけど、ぼくの生活にはいい作用を及ぼすと思ったのですよ。

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