『宇宙よりも遠い場所』を観て感じた「ねたむ心を生きるチカラに変えること」について

ここ最近、Amazonプライムビデオで、やたらとアニメをみています。

一人暮らしなのをいいことに、仕事が終わってから廃人のようにアニメに没頭することもあります。

動画配信の時代になって、作品をずっと再生しっぱなしにして一気に見てしまうことができるようになりました。

ああいうことは昔はできませんでしたね。

ビデオでもDVDでもブルーレイでも、ハードディスクに録画しておいた作品でも、ひとつ作品を見終えたら次の作品をみるたびにひと手間、ふた手間はどうしてもかかっていました。

動画配信サービスの場合は、わずかな広告や、連続視聴を確認する画面を飛ばす以外には手間がないので、なにもしなくてもずっと同じ作品を見続けることができます。これは劇的な変化といっていいでしょう。

家族と一台のテレビを共有している場合は、誰かの趣味嗜好に合わせて延々同じ作品を見続けるなんてちょっと気の滅入ることかもしれませんが、ひとりだったらこんな便利なサービスはありません。

それで、ぼくはひとりで暮らして2年になりますが、ここにきてアニメのおもしろさにとうとう捕まってしまったというわけです。

ぼくは「オタク気質」は持っているほうだと思ってますが、決してアニメオタクなんて呼べる人間ではありません。

映画や音楽をみる趣味と同列に、アニメにもおもしろさを感じる、というレベルです。

Amazonプライムでは作品ごとに評価の星がついていますから、数ある作品の中で評価のよいもので、自分のアンテナが伸びるものだけをつまみ出して見るわけです。

それにパソコンしながら、テレビで何気なくストーリーを流し見したり、ウォーキングしてる間にみていたりと、ようするに「ながら作業」なんです。

制作者にはたいへん失礼な話ですけど、家でくつろぎながら見るというのであればどうしてもそれくらいくだけたスタンスになってしまいます。

しかし日本のアニメは、じつに膨大な量が生産されてるんですね。知らなかった。

ぼくはドラえもんは大山のぶ代、ルパン三世は山田康雄と決めつけているような旧式の人間です。そんなふるくさいオッサンが最近のアニメに触れて、膨大に生産されているにもかかわらずひとつひとつの作品が、非常に質の高いことに驚きました。

さて、前置きがずいぶん長くなりましたが、今日の話です。

つい先日『宇宙よりも遠い場所』というアニメをみたんです。

先に言っておきますが、あんまりこのアニメの話について突き詰めるようなことはなくて、自分が思ったことを書いていくことになります。

これは2018年の初頭にアニメになった作品なんですが、その作品で人間の嫉妬心について考えさせられました。

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人は人をねたむ

このアニメでは、女子高校生が南極へ行くという、誰もが「そんなことはできるわけがない」と思うようなことを実現してしまうストーリーです。

最初にある事情を持った女子高生が南極へ行こうと努力しているんですが、これにこれまで漠然と何かを成し遂げたいと思いながらも、のんびりダラダラ日常を過ごしていた主人公の女子が感化される。

そして一緒にこの夢をかなえようと努力するわけです。

そこにさらにふたりの女子が参加し、合計4人で南極へ行く夢を実現していく。

ざっくりいえば、これが物語のあらましです。


で、主人公にはこのあたらしくできたパーティとは別に、付き合いの長い友達がいます。

この友達は、そのようなそぶりは見せませんが、じつは主人公のがんばりに嫉妬してるんですね。それで、陰でそれとなく彼女たちに嫌がらせをしていた。

主人公たちがひたすら明るく前向きに、ご都合主義ともいえる強引さで南極観測への夢を現実のものにしていく牧歌的な作中で、物語が佳境に入ろうかという手前で友達の嫉妬心が明るみになるシーンは、見る者にギョッとするようなインパクトを持って迫ります。

この友達は、主人公にじぶんが行った嫌がらせを告白し、決別を宣言します。

これまで自分よりもどんくさいと思っていたあの子が、自分に頼ることをやめて、大きな目標をもって、努力するようになった。それがねたましく、腹が立つ。だから、嫌がらせをしてやった。なのに、自分の嫉妬心に気づくこともなく、どんどん自分の目標に向かって邁進し、夢を実現させようとしている。そんな様子をみて、自分の卑小さが、つくづくイヤになった。

というのが理由です。


他人の努力に脅威をおぼえ、成功をねたむ気持ちはだれもが多かれ少なかれ持っているように思えます。

だからこそ、世の中常に成功者の足を引っ張る者が出てくるのです。そして成功者がもし転落してしまえば、それをみて「ざまあみろ」といって笑う。

「人の不幸は蜜の味」と思う感情は、人間心理の特殊なケースをさしているのではなくて、むしろ普遍的な心理です。

ただわれわれは知性によってねたみの感情を隠して生きることもできるし、自分もまた目標をもって生きることでねたみにとらわれずにいることもできます。

さっきも言いましたが、結局この作中の友達は自分のしたことを主人公に向けて告白し、謝り、主人公と決別しようとします。嫉妬の対象とたもとを分かち、自分の背丈で生きようとするのもひとつの方法なのだろうと思います。

しかし現実世界のわれわれは、こんなに素直に自分の嫉妬心を相手に吐露できることはまずないですね。

嫉妬の原因

人間にとって「お金」や「地位」や「容姿」や「才能」といった他人と比べられるものはすべて嫉妬の対象となるでしょう。

そして嫉妬とは、一種の依存です。依存するとき、われわれの心には快感と嫌悪が天秤のようにして共存しています。

ねたんだ相手が失敗したり転落したりすると、その瞬間自分の心に、えもいわれぬ快感が生じる。他人の不幸が蜜の味なのは、そういうことです。

でも同時に、嫉妬心は自分自身をおとしめます。

人をねたみ、他人の不幸をよろこんだ瞬間、自分の卑小さに対する嫌悪感も同時に芽生えるものです。

嫉妬は、ドラッグと同じ。依存性があって、容易に人を堕落させるものだと思います。

生きがいを持つこと

じゃあ、人をねたまずに生きるためには、どうすればいいんでしょう。

ぼくが思うのは、他人とおなじフィールドに立たず、自分もまた自分なりの目標をもって生きることです。

具体的には言いませんが、『宇宙よりも遠い場所』でも、最後にそのような結末を準備しています。

他人に嫉妬するチカラを自分の暮らしに振り替えてしまえば、少なくとも心は健やかな毎日が送れることでしょう。

これは言い換えれば、「生きがいを持つ」ということだと思います。

もちろん高校生といった生きがいの権化のような年齢層に「生きがいを持って」というような言葉は似あいません。

けれど、いささか人生にくたびれはじめてきたぼくのような、中年に差し掛かった年齢層にとっては、「生きがい」という言葉は一種異様な重みをもってくるものです。

いまはまだ旺盛な欲求があっても、少しずつ老化を感じてきた今日この頃、老後にじぶんの感情が搾りかすのようになって、これまで楽しいと思っていたことに喜びが感じられなくなったとき、どのように生きていけばいいのだろうという漠然とした不安が鎌首をもたげます。

そのときじぶんへの無力感にとりつかれてしまったら、社会にいる人々をねたみ、やっかみ、そして人生をなげきながら暮らすしかないのでしょうか。

今のところ、ぼくは幸いにして百姓という仕事をもっていますし、これが生きがいになってます。野菜作りというのは体さえ動いていれば一生モノの仕事になります。

それにこうやって外に向けてブログを書いていることも目標をもってやっていることです。

南極に行こうというような大それた話ではありませんし、それどころかぼくの暮らしは人からみればあまりにもレベルが低いと自覚してるんですが、それはそれとして自分の背丈で生きがいをもっています。

ねたむ心はどうしたって取り除きようがないけれど、上手に使えば自分の人生にハリを持たせる原動力になるんじゃないかと思ったのです。

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