人間は結局依存したがる

ぜんぜん考えがまとまってないんですけど、最近ふと、こんなことを考えるようになりました。

宗教ではその世界において、人間には到底まねのできない「偉大なる何か」が頂点にいるわけです。

日本の場合は神道で、これは本来アミニズム(精霊信仰)ですが、古事記以降天皇が神道の総元締めという格好となり、明治以降は水戸学にならって尊王志向が高まり、大日本帝国憲法で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と記され、現人神として扱われるようになりました。

戦後天皇は人間だといったのですが、今でも日本国民の多くはそういった経緯を深く掘り下げるようなことはせず、象徴としての天皇を半ば神格化しているように思えます。

仏教の場合はブッダですね。ブッダ自身は人間らしい懊悩を抱えながらひとりの哲学者であり、同時にカリスマをもった指導者として人間の人生にひとつの道筋をつけた人なのですが、これがブッダの死後、弟子たちによって神格化され、大乗や小乗などの紆余曲折を経ながらアジア全土に布教されることとなりました。

こんな調子で並べていくとキリがないんですけど、つまり宗教というのはおしなべて、「侵スヘカラス」ななにかによって支配する構図になっている。

われわれはじつは、どうしてもこういった人知を超えたとされるなにかに頭を垂れたがる生き物なのではないか。

ぼくはずっとこれは逆で、科学の時代になり、これまで説明のつかなかったことに真実の道のりが示されるようになれば、宗教というものは必要なくなるんじゃないかと思ってたんです。

だから原理主義者のような極端な考え方の人は、ほんとうのことよりも原理のほうが大事だという偏屈にしか思えなかったし、最近の日本の、安倍晋三さんの言うことなら黒いものも白というような連中は、なんてバカなんだろうと思ってた。

ところが、どうもほんとうは、客観的事実や科学的真実を見誤るわれわれこそ人間らしい人間で、論理的な正しさや、科学的な真実を完全に実現するというのは、人間にはとても困難な問題なんじゃないかと思ったのです。

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人間はなにかに依存したがる

少し話が変わりますが、たとえばある家族がいたとします。そして夫は重度のアルコール依存症です。

そんな父親の理不尽で破滅的な行動に、母親はものすごく苦しんでいるにもかかわらず、なぜか父親の飲酒を否定もできず、なんならそれをアシストするような行動をとることがあります。

これは、共依存といって、夫婦がお互いにその人間関係にとらわれて、依存してしまっているんですね。

このような夫婦の場合、彼らの子供は成長すると自己肯定感の低い、いわゆる「アダルトチルドレン」になりがちです。

家庭全体が機能不全におちいるんですね。

このとき、第三者には彼らがとるべきただしい行動がなにか、わかっています。

「旦那さんはすぐにお酒をやめるべきだし、奥さんは旦那さんの再生のためにこそ心血を注ぐべきですよ」

まあ、よそから口を出すだけならなんとでも言えますよね(笑)

けれどこの夫婦は、このような客観的事実を持ち出されても、それを実行に移すことはなかなかできないでしょう。たとえ頭で理屈はわかったとしても、です。

「それがただしいことだとわかってはいるんだけど……ねえ」

というような煮え切らない態度のまま、現状の依存関係にずるずる引きずられてしまう。


覚醒剤の使用で何度も逮捕される田代まさしさんをみてると、「何回おなじわだちにはまるんだろう」といってあきれる人も多いと思います。

覚醒剤の薬理もじゅうぶんにわかっており、それによって社会生活が破綻したということもわかっている。さんざん辛酸をなめつくしたにもかかわらず、やっぱりおなじあやまちを繰り返してしまう姿をみていると、人間はなかなかとらわれから抜け出すのはむずかしいということがよくわかります。

決してあきらめているわけではないんです。

それでも苦労して、客観的事実や科学的真実に向かっていくことが、合理的でみんなにとって幸福な社会なんだと思ってます。

アルコール依存から脱却し、健全な家庭を目指す。覚醒剤をやめて社会復帰を目指す。政治のなれ合いや腐敗をきちんと指摘して健全な国家を目指す。

目標としてはどれもとても大事なことだと思います。

けど同時に、人間はどうしてもなにかに依存したがる生き物で、神様仏様にすがりつくことで心の平穏を得たり、薬物でひと時の快楽におぼれたいと思ったり、人の悪癖をきちんとダメだと言えない人間関係に陥ってしまったりする。

ぼくだって、仮に目の前で金を配られていい思いをしたうえで、「これでちょっと、今回の件は目をつぶっておいてね」といわれたら、良心の呵責はあったとしても黙ってると思いますから。この瞬間、ほんとうのただしさよりも自分の都合を優先してしまう依存の関係は成立しちゃっています。

「客観的、科学的なほんとう」よりも、理不尽でも依存を優先してしまうことのほうが「人間としてはほんとう」で、そういう現実をしっかり受け止めないことには、理想を掲げても上っ面になってしまうのではないか。

人間がはるか昔から抱えてきたこのものすごく困難な問題を、知性さえあれば克服していける、根性があればどうにかなる、それができない人間はバカだ、というような楽観的な考えでいるうちは、どうしてもどこかで行き詰ってしまうように思えるのです。

実際、今行き詰っている

さて、最初にぼくは「ぜんぜん考えがまとまってない」といったんですけど、実際ここまで述べたことから先に、ぼくはこの問題をどうまとめるべきかというビジョンがありません。

人間は依存してしまう生き物である、と同時に、健全な人間関係や社会を築くためには極力依存を断ち切ったほうがよい。

これがわかったからといって、ぼくにはじゃあわれわれはどうすべきなのか、という答えを導くことができないんです。

ぼくにはどうしても竹を割ったように「わたしもあなたも依存のない理想郷へ行きましょう」とは言えない。

それはある人にとってはとても苦しいことだということがわかっているから。

たとえば浄土真宗に帰依して一生懸命修行している人に向かって「死んでも阿弥陀如来が救済するなんて非科学的なことがあるわけがない」なんて、ふつうは言えないでしょう?(笑)

せいぜい個々人のそのときのステータスに合わせて「自分が依存したがる存在だということを理解して、向上心を持って生きていこう」くらいにしか言えないんですけど、そのような姿勢もほんとうにただしいかどうかといわれると、よくわからないんです。

ここまで読んでいただいたあなたには申し訳ないんですけど、ぜひ一緒に考えてくれませんか。

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