日本の政治的無関心、政治的無知について考えてみる

よく、「社会思想に目覚める」なんて言い方をしますけど、正直ああいうことは大人になってから手探りで見つけるようなものではなくて、義務教育の段階である程度重要項目として教えておく必要があると思うし、高校生くらいになったら社会思想と社会のありかたについて積極的に考え、実践していったほうがいいと思っています。

香港ではいま中国共産党支配に対抗する民主主義運動が活発化していますが、あの原動力は「通識教育」といって、学生の段階で自分の社会や政治の問題を当事者としてディスカッションする授業が設けられているのだそうな。

子供のころから、じぶんたちの住む社会が政治や思想によって成り立っているんだということについて当事者感覚をもって接していれば、社会はそんなにカンタンに極端な方向にはいかないんだと思うんですが、日本の場合そのような教育がなされていないことを、「政治への無関心」なんて言い方ですりかえてしまうでしょう。

実際にはいまやこれは無関心なんじゃなくて、無知なんですよ。

知らないから、興味が持てない。政治問題に直接的に巻き込まれる経験をしていないから、当事者感覚がない。

だれも教えていないから、わからないんです。

「いや、そんなことは公民で習ったはずだし、社会の授業でも習っているはずだ」

とおっしゃる向きもあるかもしれませんが、残念ながらあれは基礎教育に過ぎません。

学生は学校でものすごくたくさんのことを学ぶけれど、社会に出て必要なのはその一部です。

でも実際にはどの引き出しが必要になるかわからないから、全体をまんべんなく学習する必要があります。

けど社会や公民というのはいつ必要になるかわからない教育ではなくて、人生の最初から終端までずっと密接にかかわってくる性質があります。

なのに「もしかしたら将来役に立つかもしれない勉強」のひとつに組み込まれているだけというのが問題なんです。

事実、いざ社会に出てみても政治や社会思想なんていちいち考えなくたって生きていけます。ほんとうはありとあらゆるところに政治や社会思想の影響があって、われわれはあるときにはその恩恵を受け、あるときにはそこに巻き込まれてひどい目にあっているのですが、そういうことを当事者として受け止めなくても、生きていこうと思えば生きていけます。

そうすると、「政治や思想というのは、それを仕事にしてる人だけで好きにやってくれたらいい。こっちはそんな暇はない、いそがしい」という考え方になってしまう。

そうじゃなくて、政治や社会思想は、社会に出てお給料をもらうのと同じくらい、自分の生活に密接にかかわってくる重要な問題なんだ、という教育が必要なんだということです。

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日本のジレンマ

じつをいえば戦前の日本では教育勅語などの形で、日本社会ののぞましいあり方について教え込まれていました。そういう意味では、帝国主義の日本の中では通識教育は徹底していたといってもいいのかもしれません。

しかし戦後の日本は社会思想がばらばらになってしまいました。

それで、じぶんたちの社会の問題ついてマジメに議論することが怖くなってしまったのかもしれないなという気もします。

だって、これまで天皇陛下万歳、鬼畜米英だと言ってた人が、敗戦によって米軍の支配下におかれる。

そういった経験をした人に向かってですよ?

「日本はこれまでは帝国主義国家であったが、敗戦によって戦争を放棄した。大元帥であり神であった天皇は、日本の象徴として人間となった。つまり日本は連合国によって反帝国主義国家の性質をもつこととなった。そして民主主義や自由主義が今後日本を席巻していくであろう。さあその当事者として、このクラスのみんなで政治問題や社会問題に対してじぶんたちがよりよく生きるにはどうすればいいか、議論したまえ」

なんて言われたらどうなるか。

議論どころか、バトルロワイヤルになってしまいます。

軍国少年で大日本帝国を信じて疑わなかった人からすれば、戦後の日本には納得がいかないだろうし、みんなあれだけじぶんの人生の根幹をなしていた主義思想なのに、あっさりくつがえして鬼畜米英主導の民主主義に乗っかるなんて、信じられないという思いでしょう。そしてじぶんは戦後の民主主義に蹂躙されているという怒りや不満を感じている。

逆に民主主義をいいものだと感じた人からすれば、太平洋戦争でじぶんたちを抑圧してきた暴力的な考え方を戦後にそのまま持ち込むような奴はぜったいに許せないし、これまでじぶんたちの生活をさんざん蹂躙してきた連中に仕返しをしてやりたい、とも思っている。

こういう人たちといっしょに、「社会をよくするにはどうすればいいか」という議論をしましょうといわれたら、なんでそんな火中の栗を拾うような真似をせねばならんのだ、と思うはずです。

実際に戦後の学生運動などをみれば、それがかなり暴力的なもので、「できれば関わり合いになりたくない性質を持っていた」ことは間違いありません。

そのようにして戦後、われわれは政治問題や社会思想について腫れ物にさわるような状態になってしまいました。

そういった戦争の当事者たちの政治的無関心は、世代を経て「政治的無知」となり、小泉政治の言葉を借りるなら、「B層」を形成するようになったわけです。

そして政治的無知な人たちが大人になって、突然「社会思想に目覚めた人」となります。

ところがこれが、いろいろな社会思想の側面を教育と実践によって多角的にとらえるのではなく、ブックオフの政治経済コーナーに置いてあるような本をたまたま読んで、そのまま傾倒してしまったというようなものだから性質が悪い。

あるいはSNSでの「反アベ」の人たちの主義主張にのめりこむようなのも、やっぱり一面的な傾倒です。

今の日本で起こっているのは、そういった大人になってから啓蒙されるタイプの社会思想の蔓延で、彼らの子供にもそういった一面的で半端な思想が移っていくという状態です。

ことなる主義思想を冷静に聞き、取りまとめて、ちょうどいい場所を探すという実践教育をしていないから、じぶんの置かれた立場にとって心地いい場所に落ち着いてしまって、それ以外は敵だといって攻撃するようなことをしている。

このような社会のありようをひっくり返そうと思ったら、じぶんたちにとって望ましい社会とはなんなのかということを忌憚なく議論できる場を義務教育の段階から積極的に作っていくことなんだろうと思いますが、そうするとやっぱり太平洋戦争以前、以降というものがどうしても引っ掛かってくるわけです。

どうにもじぶんたちの手で民主主義を勝ち取ったという経験がないのだから、西側諸国の一員といっても、日本はなかなかむずかしい国なのだなあとつくづく思います。

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