人間の「こだわり」はなぜこんなにもややこしいものなのか

人間という生き物はじつにややこしい。

もう何年も前から出口をみつけようと考えていることなのだけど、さっぱりわからなくて、袋小路に迷い込んだり、合わせ鏡のような無限連鎖に引っ掛かったりする、とある問題があります。

それは、「こだわり」。

こだわりに折り合いをつけるという、ものすごくカンタンに思えるようなことが、じつは徹頭徹尾ややこしいんですよ。

人間はこだわりをいちばんの喜びにして生きているのに、それが宗教にまでいけば、こだわりによって殺し合いをするし、じぶんのこだわりが他人に理解してもらえないことで孤独になることもあります。

こだわりをどうコントロールすれば、人間平安な場所に落ち着けるものなのか。あるいはそんなものはそもそも望むべくもないことなのか、ちょっと今日はそんなことを考えてみたいと思います。

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こだわりがないというこだわり

もう10年ほど昔、ある人が以下のようなことを言ってたのが、ぼくが人間のこだわりのややこしさをはっきり確認した最初でした。

その方は結婚なさってて子供もふたりいて、短い時間のパートと家事をこなしています。そしてブログを運営なさっています。ぼくがその方のブログを知ったのは、旦那さんが工作を中心としたウェブサイトを運営なさっているのを閲覧していたのがきっかけで、そこから派生して奥さんのブログに行きついたのです。

そのときの発言の内容は、おおむねこのようなものです。

「今日はあえて靴下をいつもと逆に、つま先側から干してみました。年齢を経るにしたがって、どんどんどうでもいいことに対するこだわりが強くなってきているので、細かいこだわりをわざと壊すことで、じぶんのこだわりをリセットしてるんです」

と。

ふだんは足首の側から干している靴下を、わざとつま先のほうから干してみる。それをわざとやってみるというんです。

おもしろいことをおっしゃるなあ、と思ったのですが、あれから10年経ってもいまだにその言葉が忘れられない。

ぼくもどうも、こだわりに対する感情面でのややこしさが、年を経るにしたがって肥大しているように感じられるからです。

じぶんのこだわり

ぼくは田舎暮らしをしていますけど、自然食というようなものにはとんと興味がなくて、朝からカップ麺をすするようなこともしばしば。

コストを安く上げようとしてシンプルな調味料を使うことはあっても、自然派高級調味料なんてのには興味がありません。

せいぜい塩くらいは、数十円の差だから精製塩じゃなく海塩を使うか、程度のものです。それだってよくよく考えりゃ、カップ麺に使われてる塩なんて精製塩だろうし、ぼくが使うような安い調味料の塩はぜんぶ精製塩だろうから、塩単体だけこだわっても意味ないよな、と思うんですけどね(笑)

ただそのような正論を他人から言われると、ムッとするかもしれません。「それはわかってるんやけどなあ……」と思いつつも、こだわってやっていることだからです。

こういうところでスッと、「そうでんな。ほな精製塩にしまひょ」と切り替えられるかどうか、相手の考えにじぶんをあずけることができるか、ということも今回取り上げたい問題点です。

それから、ふだんぼくはサプリメントで月にして2~3000円ほど使うので、これもこだわりといえばこだわりです。

トイレットペーパーをシングルがいいかダブルがいいか、というのもよく取沙汰される問題ですね。ぼくはそれは別にシングルでじゅうぶんです。が、ウォシュレットはほしい。

車にはまったくこだわりがなくて、安くてちゃんとしたものならそれでよいです。安全に乗れればそれでよし。アルトとかミライースでじゅうぶん。ですが、車自体は必要だと思ってます。

でも、こういうこだわりの強さ、弱さというようなものをいくら並べ立てても、それは今回の問題の解決には結びつかないんですよね。

こだわりと無分別

ぼくの祖母は今年亡くなりましたが、晩年は意識してこだわりを薄めていたようです。本来納得のいかないようなことでも、「へえほおはあ」と受け流して、ニコニコ笑ってすませるようなところがありました。

それは一面からみれば素直でけっこうなことですが、反面からみれば底意地のわるい老獪なところも見え隠れするわけです。

老いてじぶんの思う通りにならないことが増えて、人に迷惑をかけることばかりになり、他人にじぶんの暮らし向きを預けざるを得なくなったときに、こだわりを減らしていくというのはひとつの自衛手段だったのかもしれません。

しかし、こだわりがないというのは、ものごとを他人任せにするということでもあります。

人間、社会的に生きようとすると、髪の毛くらいは切っておいたほうが良いとか、風呂くらいは入ったほうが良いとか、家の掃除くらいはしたほうが良いとか、ご飯は食べなきゃならない、排泄はしなきゃならない、そこらで眠りこけるよりはベッドで寝たほうが良いとか、ごく基本的で単純な生活でもこまごまとした決まりごとがたくさんあります。

そういうことに対するこだわりがまったくないとなると、それはそれで困りものでしょう?

髪の毛ぼさぼさ、風呂にも入らず、掃除もできず、ご飯の作り方もわからず、トイレも粗相したり、足の踏み場もないようなゴミだらけの中で眠りこけるような、「こだわりのない人」というのは、こだわりが細かすぎる人とはまた別の問題が発生します。

社会的に生活してもらうために、他人がその人の世話をする必要が生まれるわけです。

よく、定年退職してから奥さんと別れたり先立たれたりして、独り身になった旦那さんは早死にするといいますけど、あれは掃除や炊事といった基本的な家事のこだわりをぜんぶ奥さんに預けてしまっていたために、じぶんではなにもできないのが原因でしょう。

こだわりがないのは無分別と大差ないんですよね。ぼくはこれまで、こだわりを減らしていけば他人に迷惑をかけずにいられるんじゃないか、と思っていたけど、じつはこだわりがなくちゃ人間はひとりでまともに生きていくことさえできないんです。

どのようにこだわるか

では、なにをどのようにこだわるか、という話になるかと思うんですけど、これがほんとうにむずかしい。

さっき、早死にする旦那さんの例を出しましたけど、古いことわざに「男子厨房に入るべからず」というものがあります。

厨房は女子の聖域であり、男は入ってはならぬというのです。

男女同権をうたう現代と照らし合わせると水の油のような考え方ですが、ぼくとしては同権とかそんなこと以前に、そんなことをされたらパートナーが先にいなくなったときにひとりで生きていけなくなるから困る、と言いたい。

じぶんの飯くらいじぶんで作れるようになっておくとか、最低限の掃除くらいはじぶんでやろうとか、そういうのは男女の役割を問わず、生活の素養として必要なこだわりだと思います。

それでもそういうこだわりを持つと、女から疎まれ、「男は居間でじっとしときなはれ!」と言われる時代もあったわけです。

逆に当時の男は男で、仕事のことで女がなにか言おうものなら、「男の仕事に女がしゃしゃり出てくるな、黙っとれ!」といって抑圧していたわけで、まあ窮屈な社会ですね。

ようするに昔は、なにかひとつこだわりを持つにも役割があって、役割からはずれた人がそこに踏み込むようなことはしてはいけない、ということだったんでしょう。

そういう意味では現代はずいぶんこだわりの境界が薄くなって、よかったよかった……かというとそうでもない。

「靴下をどっちから干すか」という話に戻りますが、旦那はわたしのやり方とちがう、といって怒るような女性がいるし、それでいて家事を手伝うくらいは当たり前だ、というようなことを同時にのたまう人もいる。

男はどうかというと、夫婦共働きで女がじぶんより稼いでいるということで腹を立てる男はいまでも多いようだし、それでいて生活のために共働きを望む男もおおいようです。

男女同権といいながら、はんぶん昔ながらの役割意識を捨てきれないでいるから、おかしなもめごとが起こってしまうんでしょうか。

ちなみにちょっとしょうもない話をしますけども、ぼくはひとり暮らしをいいことに、じぶんの洗濯物は大型のピンチハンガーでぜんぶ挟んでしまって、外にポイっと干してしまいます。

ハンガーがひとつですむから、じつにラクです。

洗濯物はきちんとハンガーで干さないとしわになる、靴下はこっち側から干さないと、というようなことにこだわっている人からすると、額に青筋が立つくらい腹の立つことなのかもしれませんが、ぼくはおしゃれに大した興味がなくて、じぶんの服はとりあえず乾けばいいという程度にこだわりが薄いので、平気です。

夏の暑い日にTシャツが、しわだらけのままパキパキに乾いていても、「着てりゃ伸びる」と言える程度に無神経なのです。

そんなことより、早く洗濯物をパパっと干してしまいたい(笑)

そのかわりいまぼくが話しているような、人間関係のもつれあいなどは、神経が摩耗して衰弱するくらい時間をかけて考え込んでしまう。

こんな考え事に時間を費やされるのは、ほかの人からすれば迷惑な話でしょう。

「あんたはヘンなところにこだわりすぎる。神経が細かいねん!」といってイライラされるかもしれません。ぼくはこだわりのバランスがずいぶん悪いというわけです。

まとまらないまとめ

ひっきょう、こだわりとは個人主義です。

たとえば会社に勤めている場合、会社というのは全体主義な場所ですから、社員個人がこう考えているというこだわりよりは、会社全体の都合が優先されます。

全体主義的な場所では、個人主義は引っ込んでしまうのです。

全体の足並みをそろえようと思ったら、あんたのこだわりは要らんねん、という考え方です。

「男子厨房に入るべからず」もおなじことだし、「男の仕事に女がしゃしゃり出てくるな」もそうです。

全体のことを考えて行動するために、こだわりを引っ込める必要があるのはよくわかります。それはわきまえの問題として、よくわかるのです。

でもこだわり自体は生活する上ではとても大事なことです。

こだわりが人の足を引っ張ることがあるのは確かなのだけど、そういうことでの時間の浪費だとか面倒くささというものは、じぶんもまたこだわりのある生き物なのだからといって、大部分を寛容に受け止めるしかないんじゃないかと思います。

なので、人に迷惑をかけないためにこだわりを薄めるというようなことは、会社勤めなどでは必要なスキルだと思うけど、そうじゃない場所では、じぶんもこだわりを持って生きて、他人のこだわりも許容する、というスタイルがいいのかなあ、と思うのです。

それでいて、ある程度おたがいにこだわりを合わせるような努力も必要だろうと思います。そのへんの兼ね合いというか、バランス感覚がとてもむずかしいんですけどね。

これを突き詰めていくとまたややこしくて、どうにもまとまらないんですけど、ごく大雑把にいってしまえば、そのあたりが人間同士のフィーリングなんですよ。

このフィーリングが合わないと、なかなか人間関係はうまくいかない。機微というやつです。

もしだれかと一緒に暮らすのなら、このあたりの考え方を共有しあえる人が、ストレスが少なくていいかもしれないなあ、と思ってます。

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