現代人こそ身土不二について真剣に考えるべし

今日はいわゆるジジくさいことを書いてみようと思ってるんですけど、じっさいぼくはもう昔であれば「初老」といわれる年齢になりました。

統計をみても、40代からどんどん死亡率は上がっていくんですね。現代でもそうなのだから、抗生物質がなかったような時代だと、40代以降というのはみんな今よりはるかに死を身近に意識していたのではないかと思います。

そんな初老のおっさんが、百姓をしながら考えているのが、身土不二ということです。

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身土不二とはいったいなんなのか

たぶん、この言葉、おおくのかたにとってはなじみがないと思うんですよ。

都市部にお住まいの方は、説明されてもピンと来ないかもしれない。

「体と、その土地の土とは切っても切り離せない関係にある」

というのです。

いまどき、都市部だと土の上を歩くことのほうが少ないでしょう。

地面はほぼアスファルトで覆われているし、公園は土畳みのところもおおいけど、雑草が生えほうだいにならないように管理されているし、食べる野菜は全国から流通していて、地産地消なんてことは夢物語くらいにしか思っていない。

そういう中で「身土不二」といわれたって、なんだか現実味がない話だと感じるのは当たり前だし、ぼくも大阪市内で生まれ育った人間として、都市部の人の気持ちのほうがよくわかります。

けれど、いざ田舎で暮らしてみると

実際に百姓をしてみて、じぶんのまいた種が発芽し、生長し、収穫をするという経験をすると、人間が土によって生かされているということがダイレクトに感じられます。

現代では飛行機や船や車といった輸送手段が発達したことで、都市部では食糧生産を行わず、田舎に生産をすべてまかせることができるようになりましたが、本質的なところで人間が、土からできたものを食べていることに変わりはありません。

そして、ふと考えた。

文明的なものがなにもない状況になれば、人間はどう行動するだろうか、と。

おそらくぼくだったら、往来のアスファルトを砕いて地面を露出させて、畑にします。

果樹を植え、野菜の種をまき、陸稲や小麦をつくります。

雑草が増えれば、鶏を飼ってそれら雑草を食べさせて、卵や肉をいただきます。

動物の肉だって、その土から得られるものをエサにしているのです。

もし地球上が完全にアスファルトにおおわれてしまったら、動物は滅びるでしょう。

土とは、ご先祖である

ちょっと宗教っぽい見出しになりましたけど、そういう話じゃありません。

われわれが野菜を育てている土とはいったいなんなのか、というと、これは「有機物のなれのはて」なんですね。

たとえば有機物の一切ない岩山の無人島を想像してください。

そこに、草の種がひと粒。なんとか発芽して、そして雨や太陽光で光合成をして生長しようとするけど、貧弱なまま枯れてしまいました。

枯れましたけど、その植物の残渣が有機物として微生物に分解され、ほんのちょっぴりの土になって、そのうえにまた種がひと粒。

すると今度はそのほんの少しの土によってより大きく草が育ち、そしてまた枯れる。

そんなことを何度か繰り返すうちに、土の量が少しずつふえて、あるとき植物はとうとう実をつけるまでに生長しました。

その実を狙って海鳥がやってきて、糞を落とします。これもまたリンなどの栄養を含んだ有機物で、徐々に岩山に土が増えていく。

そしてとうとう、一本の木が育つほどになります。

この木は落葉樹で、一年の終わりには葉を落とし、それが堆積してより多くの土となります。木の枝には鳥が止まりにやってきます。

そこで鳥は糞を落とし、あるいはそこで命を終えます。すべては有機物としてその土地の土となり、その土にまた有機物が生まれる。

かくして気の遠くなるほどの年月を経て、この岩山は数メートルの有機物の土で満たされた肥沃な山となって、独自の生態系を持った生き物たちが住み着くようになります。

すべては、そこに土があればこその命の連鎖であり、いまそこで生きているということは、先達の命のうえに立っているのと同じだということです。

ふつうに生きているだけで見えなくなることがある

ぼくが言ってることって、おそらく一世紀もさかのぼれば、「そんなもん、いちいち言われんでもわかっとるわい」といって一蹴されるような話だったと思います。

昔の日本では都市部でも野菜作りくらいはみんな当たり前にしていたし、土はそれだけ身近でした。

ところが現代では人口のおおくが都市部に集中して、アスファルトのうえで人生のほとんどを過ごす人もすくなくありません。

「最近の子供はスーパーで売ってる切り身の魚しかみたことがないせいで、海では切り身が泳いでいると思っている」

なんてウソかほんとうかわからないような話がまことしやかに伝播したこともありました。でもあのうわさは実際に、それくらいわれわれの生活から身土不二という考え方が遠ざかってしまったということだと思います。

山に行けばイノシシやシカやサルがいる。川に行けば川魚がいて、カエルがいる。海に行けば海の魚がいて、陸上の草とはちがう海藻が生えている。

ごく当たり前の自然の風景ですが、自然そのものに触れたことのない人には、それが「自然」だということもわからないわけです。

川釣りは危ないからやめろ、海は管理されているから勝手に釣りをしたり泳がれては困る。地面はすべてアスファルトで覆われ、野菜を育てたのは小学校の時にプランターでプチトマトを育てたっきり。公園の砂場さえ不衛生だといってなくなっていく。死んでも土葬ではなく焼かれて灰となる。どこまでも土と無縁の暮らし。

そんなふうにして育った人に、身土不二を理解せよといったところで、わかってもらえるわけはないと思うし、ひどく遠い世界のことのように感じるのも無理はないです。

が、それでもやっぱり人間は身土不二なんですよ。

われわれは土によって生かされ、土に還っていく生き物です。

バランス感覚の問題でもあるんですけど、あまりにも土を軽んじて、文明だけを崇拝するようなことをしていたら、やっぱりそれはしっぺ返しとして人間を含めた動物に返ってくるわけです。

福島第一原発が爆発したとき、おおくの人が放射能が人間に与える直接的な影響ばかりを気にしていたけれど、ぼくはその土地の土が放射性物質によって、持続不可能な土になってしまうのではないかということが不安でした。

じぶんたち一代限りの命の危機なら、次世代がじぶんの屍を乗り越えてくれればよいのだけど、放射性物質で土が使い物にならなくなってしまえば、そこでわれわれが命をつないでいくことがむずかしくなってしまう。

あの一件での大混乱を目の当たりにして、ぼくは現代文明に慣れきってしまうと、「土がなければわれわれは生きていけない」という当たり前のことが見えなくなることもあるんだ、と痛切に感じました。

それはひいては、「国土」とはなにか、という話にもつながっていくのだと思います。

ただひたすら経済的に豊かになることだけを追い求めて、じぶんたちが生きているこの瞬間がよければ、次世代のことなどどうでもよいという考え方では、いずれ土を滅ぼし、最後には国を亡ぼす結果につながるのではないか。

ことわっておきますが、ぼくは自然のあるがままに生きることだけが尊いと言いたいのではなくて、むしろ現代文明はおおいに尊重すべきだと思ってます。われわれの暮らしはいろいろな道具を活用しながら、より便利で豊かになっていくべきだとも思っています。

けれど文明の恩恵をただ漫然と受け、追求していくのではなく、やはり人間が生きる上でのいちばんの根本は土であり、土によって人間は生かされているんだ、という当たり前のこともじゅうぶん理解しておかないと、われわれの暮らしのバランスが悪くなってしまう、という話なのです。

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