人間は本質的に軽薄な生き物なのに、世の中は理念に満ちている

突然ふと気づいたので、とりあえず書き留めておこうと思ったわけですが、ずいぶん昔、あるバンドのミュージシャンが、雑誌かなにかでこんなことを言ってるのをみたのです。

「バンドでギターを弾くときに、楽譜とか理論とかおぼえなきゃできないと思ってたけど、実際はそんなことより、やろうという思いのほうが大事だった」

ぼくはいま思い出したことを書いているので、だれが話したことだとか、原典がどこにあるということは言いませんけど(たしか女性がギターボーカルをつとめるスリーピースバンドだったと思ってます)、重要なのはニュアンスの部分で、ぼくはこの「理論よりもやる気が大事」という言葉がずっと引っ掛かっていました。

一面的には、元気が出る言葉のようなんですが、そう言い切れない複雑さもはらんでいると思っていたんです。

長い間引っ掛かりを感じたままほったらかしにしていたのですが、今日野菜の配達の帰りに、ふとそういうことか、と気づきました。それで家に帰ってあわてて記事を書いているという次第です。

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世の中の人は理論をみていない

楽譜の読めない、音楽理論を学んだことのないミュージシャンが世界中を熱狂させる音楽をつくりあげるというのは、ふつうに生活していれば「そういうこともあるんだなあ」といって受け流すだけで終わります。

この現象が示しているのは、ミュージシャンの側からみれば、音楽理論が音楽を作っているのではない、という話です。

しかしこっちのほうが重要なんですが、音楽を聴く人の側からみれば「音楽理論なんかどうでもよくて、できあがった音楽にだけ興味がある」ということなんでしょう。

これはものすごいことだな、と思いました。

音楽に限らず、世の中のありとあらゆることは、そういうことなんですよ。

どういうこと?

たとえばスマホを使うときに重視されているのは、直観操作です。

あまりごちゃごちゃと使い方を考えることなく、直観で操作できる簡便さが、世界中を席巻したわけです。

あの操作性が非常に難解で、理論を知っていなければとっつけないようなものだったら、スマホは市場の片隅においやられていたことでしょう。

ところがひと昔前までの電化製品といったら、まず最初に分厚い説明書を読みこまなければ使いこなせないようなものばかりでしたし、ああいうわかりにくさを辛抱するのが当たり前だと思っていました。

スマホもあの簡便な操作性を実現するためにかけられた労力や技術は、計り知れないものがあります。

つまり、ぼくはこの点で理想と現実というか、ダブルスタンダードのようなものと直面するわけです。

理想の面では「理論をしっかりと理解したうえで世の中にあるものを使いこなすべきだ」と感じています。

けれど現実は「理論なんてどうでもいいから、いちいち考えずに便利であればそれでいい」と短絡的に考えている自分がいる。

そして世の中の人はみんなそう考えているから、より直観的でむずかしく考えずにすむものに飛びつく。理念にしたがって、人々はより賢くあるべきだとして、スマホの使い勝手が理屈っぽいものになったら、みんなそっぽを向いてしまうのが現実です。

個々人では「きちんと仕組みを知っておいたほうがいい」と理念的なことを言うにもかかわらず、実際に世の中を動かしているのはそんな理念そっちのけで、直観的に心を揺さぶってくれるものだということです。

理論の代替品としての情熱

音楽を理論抜きで演奏しているのに、どうして聞いている側が熱狂するのかというと、理論の代わりに情熱を見せつけられて、その情熱に惹かれているということです。

ほんとうは、理論は大事なんですよ。ジャズの世界になると、理論がわからない人は参加できないし、演奏技術や理論と情熱は等価になります。

オーケストラの世界になるといよいよ技術や理論の深みが高まって、突出した個人の情熱よりも、全体と調和した情熱が求められるようになる。

しかしおおくの聴き手にとっては、まず情熱を感じるかどうかということがいちばん先にあって、その演奏技術や理論の構築は二の次です。

だから最初に感情に訴えかけてくるようなものがあれば、表現理論として不十分でも、人を感動させることができてしまう。

逆にどうもジャズやオーケストラはとっつきにくい、と感じる人もおおい。

直接的に感情にずどんと訴えかけてくるもののほうが、親しみやすく、わかりやすいというわけです。

ただ爆音で音を出して、なにかがなり声のようなものを発しているバンドがあって、技術的には非常に稚拙で、なんら特筆すべきものを持たないのだけど、異様に訴求力があって、カリスマがある、というようなものを、世の中の人はすんなりと受け入れてしまう。

ぼくはそういうところに、人間の本質的な軽薄さを理解したのです。

理念は常に劣勢にたつ

今回ぼくが思ったことは、単純に人間は軽薄だ、アホだ、と言いたいのではありません。それは一面的には事実なのだろうと思うけど、それをいうならぼくも当然横並びでアホなのです。

それよりも、ぼくが感じたのはこの見出しの「理念は常に劣勢である」ということです。

人間、もっと賢くありたいと思うし、もっと知性的に生きていたいと思う。いろんなことを解き明かしながら生きることに喜びを感じる生き物だと思います。

けれど実際にはそういうことは建前で、実際の人間の行動はおそろしく軽薄で、理念を踏みつけにしているようにさえ思えます。

じぶんが努力しているわけでもないのに、トップクラスのスポーツをみて、日本が優勝したら「日本はすごい」といってじぶんがすごいかのように錯覚してよろこぶようなことをする。

ゲームで勇者を操作してレベルをあげて、魔王を倒して、じぶんがなにかを達成したような気分になる。

ただ爆音でがなりたてている音楽に情熱を感じて、熱狂する。

……。

世の中にはすばらしいプレイをしてくれるスポーツ選手がいます。

完成度の高いゲームを作ってくれる人がいます。

難解な理論を駆使して人間の知性を高めてくれるような音楽を作る人もいます。

また理論などを体系的に学習したわけでもないのに、直観的にとことん人間の感情を揺さぶってくれるミュージシャンもいます。

この社会で提供されているものはたいてい知性に満ち溢れているのに、それを使うおなじ人間が、同時にひどく軽薄なものになびいているのです。

うーん、うまく言葉にまとめるのがむずかしいんですけどね。

人間個人は理念よりも感情的な生き物である、というひとつの現実と、そんな軽薄な人間を底支えしているのは常に理念であり、社会は理念に満ちている。

こんなところでしょうか。

わかります? やっぱりこれは、すごいことだと思うんだなあ。

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