「考える時間はほとんどが無駄」はほんとうなのか!? 泥臭く考え続ける大事さについて考える

現代社会の病巣は、なにもかもを効率化の名のもとに人間を支配してしまって、この非生産的で非合理的な生き物が、あるがまま生きることを否定しているところにあります。

人間はもしかしたら、機械になりたいのではないかと思うことがあります。

なにをバカなことを、とお笑いになるかもしれませんが、ぼくは本気で人間は機械になりたがっているように思えるのです。

時間通りきっかりに行動し、より効率的ですばやく生きることを求められ、またそういった生活に埋没することに苦痛と同時に一種の快感をおぼえている。

アメリカの実業家であるイーロンマスクは、人間の脳にコンピュータを直結するNeuralink(ニューラリンク)によって、今後人間を凌駕する知性をもつAIが人類が支配しないようコントロールすることを主張しています。

産業革命以来、革命がすすむごとに人間の生活はより便利になりました。われわれはどこかで、生活が便利になるにつれて、われわれはより人間的なゆとりのある暮らしができることだろう、と思っていたのですが、実際には真逆で、人間はより論理性と合理性を高め、機械のように型枠にはめられて生きなければならなくなってきています。

この型枠は時代を経るにつれてどんどん窮屈なものになっていき、われわれはおよそ人間的とは言いづらい、行き過ぎた合理主義の中で生きることが求められています。

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考える時間は無駄、というおそろしい考え方

そもそも人間にとって時間そのものは、有益でも無駄でもありません。そのような考え方をすること自体が恣意的です。

たとえばボーっと「ああ、おいしいご飯が食べたいなあ。おなかすいたなあ。はやく空腹を満たしたいなあ」と考える時間は、本来べつに有益でも無駄でもないでしょう。

けれど、ある人に言わせればそれは無駄だというのです。そんなことを考えたって自己実現にもつながらないし、社会の役にも立たない、合理性も論理性もない、考えるだけでは腹も満たされないのだから、無駄だ、とこういうわけです。

言いたいことはわかる気もしますけど、ぼくにいわせりゃ「余計なお世話だ」としか思えません。

ぼくがなにをどのように考えようが、それを無駄だといわれる筋合いはありません。けれど「考える時間」で検索したら、2番目に「考える時間 無駄」と検索予測が出てくるのです。

なぜわれわれは、考える時間まで合理化しなければならないのか。そうまでして論理性や合理性を追求し、社会の変革の速度を上げなければならないのか。

どうにも疑問です。

問うて答えを導く思考

少し話が飛びますが、仏教の開祖であるブッダは、考える人でした。彼自身はいま流布されている仏教の、鎧のように固められた宗教観念の中に確立した人ではなく、人間らしい苦悩と信念をもった哲学者でした。

ブッダはともかく、考えるんです。悟りを得て信念の人になるまでの彼の人生は、ひたすら悩める人でした。

旧来の過酷な修行がほんとうにこの人類の苦しみを救う手段なのか、実践しながら問う。そして、このような過酷な修行は、人を救うことにはならないと知る。ブッダは考えに考え抜いて、道理を明らかにして人類を救う道筋を作るのです。

人間の本質は一切合切苦しみである。苦行をいくら重ねても人間は生きる苦しみから解脱することはできないし、一時の快楽も人間の生きる苦しみから解放してくれるわけではない。苦しみから逃れるという考え方ではなく、あらゆる人間の生きる苦しみを内側から理解していくところに、人間の生きる光明が生まれる。こういったことをブッダは解き明かした。

ところでブッダがこのことについて理解する(宗教的にいえば悟りを開く)までに考えていた時間は無駄だったでしょうか。

ブッダは合理的思考力の持ち主だったし、おおいに哲学的だし、宗教的カリスマもある。けれど、「そのプロセスに無駄がおおい」。

現代の合理主義者なら、それくらいのことは言いかねません。

もしブッダが現代に生きていれば、彼もまたぼくとおなじように「ほっとけ」ということでしょう。仏だけに。

しかしブッダの考え方でわれわれにも応用できるところというと、「みずから問うて答えを導く思考」だと思います。

いいかえれば学問的思考というか、疑問に思うことをじぶんで問いかけ、そして解き明かそうとする思考力です。

このような思索の時間はどんなに非合理的であっても、無駄ではありません。人間としてより豊かに生きていくためには、じぶんから問いかけて、じぶんで答えを導きだそうとする思索の時間は、たくさんあればあるほどいい。

社会の求める思考の合理性とどう折り合いをつけるか

考える時間を削ってまで合理性ばかり追求し、社会が求める競争性や合理性に埋没して生きるのは、あまりにも窮屈でしょう。

べつに現代社会に反旗をたてろ、というようなことが言いたいわけではありません。ただどんどん加速度的に人間の合理性を追求されていく時代に、じぶんの頭で考えることくらいはじぶんのペースを守りたい。

考えすぎることで行動力が失われる、という人もいますが、石橋をたたいて渡るような性格をわざわざ否定することもありません。

現代では若い世代を中心に、「行動至上主義」「行動原理主義」とでもいうべき、考えるより先に行動しろ、行動の結果でのみただしさが証明できる、というような論理がもてはやされています。

しかしぼくのように40を超えたオッサンは、遠回りしてもいいから、思索と行動を両輪にして進むべきだ、と言いたい。

そういうことを意識しておかないと、社会の求めるスピード感に埋没しているうちにじぶんという人間らしさを失っていることにすら気づけなくなってしまうような気がするのです。

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