人間はじぶんひとりの問題なら抱えられるけど、世の中のことまで背負ってあげられるほど強くない

朝目が覚めて、頭がリセットされた状態というのは、気づきが起こりやすいんですね。今日も朝の野菜の配達から帰ってきて、ふと気づいたことがあります。

それは、「人間はじぶんひとりの問題なら抱えられるけど、世の中のことまで背負ってあげられるほど強くない」ということです。

これは、ぼくの今後のブログのスタンスを変えるほどの気づきだし、もしかしたらいろんな人がこういう問題に無自覚なのではないかとも思いました。

少しずつ説明していきたいと思います。

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人と比べてしまう

じぶんという人間が、もし比較対象のない確固たるひとりとして生きていけるなら、人生のハードルは一気に下がります。

いくら貧乏だろうと、いくら仕事が過酷だろうと、それそのものをじぶんひとりを生きるとして受け止めるのであれば、案外大丈夫なんです。

ところが、たとえば「おれはこんなにしんどい仕事をしてるのに、世の中には不労所得で左うちわみたいなやつもいる。不公平だ」といって不満をもつ。そうするととたんに、じぶんの仕事が今までよりずっとしんどいもののように感じられるし、働くのがバカバカしくなってくるものです。

じぶんひとりぶんの荷物を背負うことはまったく問題なかったのに、人と比べたとたん、これまで背負えていた荷物まで重く感じてしまうのです。

親が子供に「宿題はした? 〇〇ちゃんは毎日よくやってるじゃないの。それなのにあなたは」と言ってしまうと、きっと子供は息苦しくなってしまうでしょう。

そしてじぶんのペースでならできていた宿題も、なんだかやる気を失ってしまうことでしょう。あるいはずっと他人と比べられながら生きていたら、じぶんという人間を生きるにはどうすればいいか、わからなくなってしまうかもしれません。

それで、今話したようなことは、直接的に生活で起こりえることだと思うんですが、そういうこととは別で、社会から強制的に比較をされてしまうことが最近おおすぎると思うんですよ。

じぶんを社会常識に当てはめなければ生きていけない時代

最近、「〇〇ハラスメント」といって、あらゆることが他人を傷つけている可能性があるといわれます。

このハラスメントのおかしなところは、「じぶんがハラスメントされていると感じたら、それはもうハラスメントなんだ」という理屈が通ってしまうことです。

いろんな考え方があると思うし、その都度ハラスメントのパターンも違うんですけど、ここで言いたいのは、われわれはひとりでじぶんのハラスメントなら、耐えるなり戦うなり逃げるなり、あるいはハラスメントしないように努力するなりしているぶんには負える問題を、社会全体の問題としてあらゆるパターンのハラスメントの当事者扱いされているということです。

そういうことをメディアがしつこくしつこく伝えるのです。われわれはハラスメントをする側にせよ、される側にせよ、常に当事者感覚の息苦しさを感じながら生きていかねばならないし、かといってこういった問題から目を背けていると、あっという間に社会常識から置いてけぼりをくらってしまう。

ほんとうは、そんな他人事まで直視していたら疲れるんです。

ケースバイケースの問題は、じぶんと関係のないところでやってくれればいいし、いちいち世間に喧伝しないでほしいんですが、いやおうなしにそういった個々の問題をメディアが問題視し、問題そのものが社会常識となって、われわれの日常を息苦しさで満たしていく。

いま、テレビやラジオ、新聞や雑誌、あらゆるメディアから発せられるこれらの情報によって、われわれは人とじぶんを比べて、社会が求める常識にじぶんを当てはめていかねば生きていけないように仕向けられています。

それは昔であれば「隣組」がやっていたようなことであり、「しゅうとめ」が嫁をいびるようにしつけていたようなことを、メディアがそれと気づかれないようにやっているわけです。

そして、われわれはそういうことに気づかないまま、漠然とした息苦しさを常時感じているのではないかと思うのです。

じぶんがそこに加担しないようにするためには

ぼくはこれを「今後のブログのスタンスを変えるほどの気づき」だと冒頭で述べましたが、どういうことかというと、今後のぼくは、世間のみなさんが他人とじぶんをくらべて疲れてしまうような情報はできるだけ出さないようにしようと思った、ということです。

少なくともブログという形でなにかを発信する以上、ある程度他人と比べるようなニュアンスが出てしまうのは避けられないとは思いますが、もうみんなこのメディア社会で疲弊しきっているところに、ぼくがわざわざ追い打ちをかけるようなことをしなくてもいいだろうと思ったのです。

なので、これからのぼくは、ちょっと気楽なことばかり書いていこうかと思ってます。

みんなが「じぶんひとりぶんの問題を抱えながらムリなく生きていける」ようにしようと思ったら、すくなくともじぶんが他人に向けて、苦悩を押し付けるようなことはしてはいかんだろうと思ったのです。

ぼくがしんどいといえば、あなたもしんどくなる

ぼくはちょっと神経過敏なところがあって、たとえば苦しい思いをなさってる方をとりあげたドキュメンタリー番組などをみていると、ぼくも息苦しくなっていたたまれなくなることがあります。

感受性が強いといってしまえばそれまでですが、それ以上に、どうもコントロールしきれない感情のたかぶりがあって困るのです。

ぼくとおなじような感覚をお持ちの方はたくさんおられると思うし、程度の問題こそあれ、だれかが「しんどい、しんどい」といってる姿を見ていたいと思う人は少ないと思います。

でもぼくはこのブログで、じぶんの心のモヤモヤを解決するための道筋について、ともかくブログでいろんな悩みを書き連ねています。

それはじぶんにとっては、苦しさを吐き出しつつ、問題を解決するためにあがく場として活用していますが、読者にとっては、ぼくがのたうち回っている姿をみるだけの、ただ息苦しいだけの記事になっているのではないか、と思ったんですね。

「人間はじぶんひとりの問題なら抱えられるけど、世の中のことまで背負ってあげられるほど強くない」

結論としては、ぼくはこれから意識して軽いことを書いていこうということと、ぼくもまたあまり他人の苦しみを深く真正面から受け止めすぎないようにしよう、ということになるでしょうか。

それはそれでむずかしいことのような気もしますけど、しばらくがんばってみたいと思います。

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