芥川龍之介の「ほんとうの自殺の原因」について考えてみる

芥川龍之介の自殺の原因といったら、『或旧友へ送る手記』に書かれた「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」を挙げる人がおおいでしょう。

つまり、芥川は、ぼんやりとした不安感にさいなまれて死んだのだ、というのが世間一般の解釈です。

しかし当然、あれだけの知性の人が、ただぼんやりと自殺するわけがありません。

ぼくは最近になって、芥川の生きた時代と、イデオロギーについて理解をしなければ、彼の死を理解することはできないのではないかと思いました。

そしてたしかに芥川は、時代に殺された一面をもつのです。

今日はそんなことについて、つらつらとお話しします。

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大正時代と現代の共通点

芥川が生きた大正時代は、「大正デモクラシー」といって、日本の民主化を訴える声が高まったといわれています。

それでぼくはずっと、戦前の日本は民主主義運動が活発だったのだな、と思っていました。

けれど、ちがうんですよ。

逆です。

大正デモクラシーといわれる時代に起こっていたのは、極右、すなわち国粋主義(日本主義)の台頭なんです。

極右が台頭してきて、これはあぶないというので、日本のあちこちで反対運動、民主主義運動が活発になった。ところが結局国粋主義に押し切られてしまうわけです。

ほんとうは「大正デモクラシー」は、大正時代に国粋主義が広がったことに対する、ひとつの現象にすぎません。

昭和になってから日本ではとうとう軍事クーデターが起きて、政権に軍部が深く関与するようになります。太平洋戦争が終わるまでの日本の「ものも言えぬ時代」については、学校で習ったり、テレビなどのメディアが伝えるところでみなさんよくご存じだと思います。

しかし、ものも言えぬ時代は、実際には芥川龍之介の生きていたころにも食い込んでいました。彼はかなり敏感にそういった時代の空気を察知して、上手に立ち回っていたようです。

関東大震災が起こったとき、朝鮮人が井戸に毒をまいたというデマが流布され、自警団が朝鮮人を殺して回る、「関東大震災朝鮮人虐殺事件」がおこなわれました。

芥川自身も自警団の一員だったのですが、彼はこのような虐殺行為を批判しています。

この件について当時、芥川と菊池寛が話しあいます。以下は『大正十二年九月一日の大震に際して』という雑記から引用したものです。

 僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛きくちくわんはこの資格に乏しい。
戒厳令かいげんれいかれたのち、僕は巻煙草をくはへたまま、菊池と雑談を交換してゐた。もつとも雑談とは云ふものの、地震以外の話の出たわけではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池はまゆを挙げながら、「※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそだよ、君」と一喝いつかつした。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)だらう」と云ふほかはなかつた。しかし次手ついでにもう一度、なんでも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)か」と忽ち自説(?)を撤回てつくわいした。
再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきをよそほはねばならぬものである。けれども野蛮やばんなる菊池寛は信じもしなければ信じる真似まねもしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄はうきしたと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団じけいだんの一員たる僕は菊池の為にをしまざるを得ない。
もつとも善良なる市民になることは、――かく苦心を要するものである。

この〇は言論統制が行われたということです。伏字には不逞鮮人や、反体制的な人間をあらわす言葉が入っていたのだろうと推測されています。

芥川は菊池寛に、震災の原因は悪意をもった朝鮮人ではないか、など、当時に流布されていたデマとおぼしきものをぶつけるのですが、菊池寛はきちんと「そんなものはウソだ」といって叱りつけるのです。

もちろん芥川はこれをわかっていてやっています。

そして、善良なる市民であれば、こういったデマも国のために信じなければならないし、もし信じられないにしても、信じているようによそおうことくらいはしなければいけない、と言うのです。

しかし最後に、善良なる市民を演ずるのは苦労する、と本音を吐露します。

皮肉な話ですが、このときデマをデマとして批判していた菊池寛は、本格的に戦争のムードが色濃くなると、国粋主義に転向します。面従腹背だったとは思いますが、そうしなければ生きていけない時代だったのでしょう。

この雑記からわかるとおり、芥川は表向きは体制的な人間でありながら、心のうちでは体制を批判する精神をもち、実際非常に気を遣いながら批判をしていたわけです。

「将来に対するぼんやりとした不安」=「封建時代の影」

芥川の遺書ともいわれる『或旧友へ送る手記』ですが、その中にきわめて重要なメッセージがあります。

 僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持つてゐる。(僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。それは僕の「阿呆の一生」の中に大体は尽してゐるつもりである。唯僕に対する社会的条件、――僕の上に影を投げた封建時代のことだけは故意にその中にも書かなかつた。なぜ又故意に書かなかつたと言へば、我々人間は今日でも多少は封建時代の影の中にゐるからである。僕はそこにある舞台の外に背景や照明や登場人物の――大抵は僕の所作しよさを書かうとした。のみならず社会的条件などはその社会的条件の中にゐる僕自身に判然とわかるかどうかも疑はないわけには行かないであらう。)

芥川は「生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機」を挙げながら、それだけが自殺の動機ではないといいます。この引用部は非常に難解な書き方をしているのですが、「封建時代」がなにを意味するのか。

ごく大雑把に言えば、暴力的な統制と抑圧が高まってきた日本のことをさしているのだろうと思います。芥川はこの封建時代の影については、あえて自殺の原因には挙げなかった。けれどたしかに彼は封建時代に対しても「将来に対するぼんやりした不安」を感じていたのです。

そしてここで重要なのは「将来に対する」と書かれてあることです。

芥川は、これからさらに先行きが暗くなる日本で生きていくことが、不安だったのです。文学的には「生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛」によって死ぬとよそおっていましたが、ほんとうは当時の日本の「社会的条件」が彼をなにより苦しめ、自殺へと追いやったのです。

芥川の時代を見る目

いま、日本ではふたたび「封建時代の影」が近づいてきていますが、芥川から学べることはおおいです。

芥川は若いころに『蜘蛛の糸』という小説を書きました。この作品が書かれたのは大正7年です。

大正7年11月に第一次世界大戦が終結するのですが、この作品はそれより前の7月が初出で、大戦の間、世界は戦争特需の好景気にわいていました。

この表向き児童小説は、たんなる児童向けの仏教説話などではありません。

以下、あらすじです。

釈迦が地獄の罪人の中からカンダタという極悪人をみつけ、この男が人生で一度だけ蜘蛛を助けたことがあったことで慈悲心を出し、一本の蜘蛛の糸を極楽から地獄へ垂らしました。

これをのぼれば極楽へ行けるとカンダタは頼りない蜘蛛の糸を登っていく。

しかしある程度までのぼったところで下をみると、ほかの亡者がどんどん糸をのぼってくるではありませんか。

このままだと糸が切れてしまうと思ったカンダタは、これはおれの蜘蛛の糸だ、おりろといって、わめくのです。すると蜘蛛の糸はカンダタの手元で切れて、そのまま血の池に落ちてしまいました。

釈迦はこの出来事を極楽からながめて、悲しそうな顔をしました。

自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。

この最後の描写をみれば、たとえ創作とはいえこの作品が仏法説話でないことはすぐにわかります。

なぜなら、大前提として釈迦はあらゆる衆生を救うために存在しているからです。

しかしこの作品の釈迦は地獄に落ちた亡者を見捨ててしまいます。

釈迦は地獄の亡者を気まぐれで助けようとしたり、亡者の心の浅ましさに悲しそうな顔をするような真似はしません。

つまり、芥川はわざと釈迦を人間的に描くことで、これが仏教そのものの話ではないことをにおわせています。

芥川は仏教の世界観を借りて、当時の「戦争特需」なるものに群がる卑しい日本人を暗に批判していたのです。

そしてそのような「じぶんだけよければなんだっていい」という精神は、結局全体をほろぼすことになると警告しているのです。

芥川のこの作品が書かれてまもなく、戦争特需は終わり、そして戦後不況となります。まるで蜘蛛の糸が切れたように。

この時代の経緯について、ウィキペディアの「戦後恐慌」から引用します。

1918年(大正7年)11月のドイツ帝国の敗北により大戦が終結したとき、大戦景気は一時沈静した。しかし、ヨーロッパの復興が容易でないと当初見込まれ、また、アメリカ合衆国の好景気が持続すると見込まれたこと、さらに、中国への輸出が好調だったことより、景気は再び加熱した。ヨーロッパからの需要も再び増加して輸出が伸びはじめた1919年(大正8年)後半には金融市場は再び活況を呈し、大戦を上まわるブーム(大正バブル)となった。このときのブームは、繊維業や電力業が主たる担い手であったが、商品投機(綿糸・綿布・生糸・米など)・土地投機・株式投機が活発化し、インフレーションが発生している。

1920年(大正9年)3月に起こった戦後恐慌は、第一次世界大戦からの過剰生産が原因である。日本経済は、戦後なおも好景気が続いていたが、ここにいたってヨーロッパ列強が市場に復帰し、輸出が一転不振となって余剰生産物が大量に発生、株価が半分から3分の1に大暴落した。4月から7月にかけては、株価暴落を受けて銀行取付が続出し、169行におよんだ。

大戦景気を通じて日本は債務国から債権国に転じたが、1919年以降は輸入超過となり、大戦景気で好調だった綿糸や生糸の相場も1920年には半値以下に暴落して打撃を受けた。これにより、21銀行が休業、紡績・製糸業は操業短縮を余儀なくされた。休業した銀行の多くは地方の小銀行であったが、横浜の生糸商3代目茂木惣兵衛の経営する茂木商店が倒産したため、茂木と取引のあった当時の有力銀行第七十四銀行も連鎖倒産している。

政府の救済措置により、恐慌は終息をみたが、大戦中に船成金として羽振りのよかった山本唯三郎、一時は三井物産をうわまわる取引をおこなった神戸の貿易商鈴木商店、銅の値上がりで巨利を得た日立鉱山の久原房之助、高田商会、吉河商事など、大戦時に事業を拡張した事業者の多くが痛手を受け、中小企業の多くが倒産した。

企業の経営者は、こうした事態に対し、粉飾決算をおこなって利益があるように見せかけることが横行し、銀行も不良債権を隠匿して利益を計上するケースが多く、これが事態をさらにこじらせた。

まるで芥川はこうなることを見越していたかのように『蜘蛛の糸』を発表していたのです。

芥川の時代を見る目は確かでした。彼の残した作品は、いまこそもう一度、社会思想の面から問い直してみる価値があると思っています。

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