「不条理」について考える

オッサンになるにしたがって、こんなふうに思うようになりました。

人間の社会というのは、巨大なタンスのようになっていて、無数の引き出しがある。

それで、われわれは引き出しをあけて、閉じるという動作を繰り返す。ところが、ひとつの引き出しをあけると、どこかぜんぜん別の引き出しが閉じる。引き出しを閉じると、どこか予想もつかないところで引き出しがあく。

どうもそういうルールになっているらしい。

世界中の人が、引き出しをあけて、閉じる。そのたびにぜんぜん別の引き出しもまた、あいては、閉じる。

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なにを言ってるんだ、このオッサンは

ようするに、因果の話なんです。

じぶんのしたことが、全然別の場所で、だれかを喜ばせたり、あるいは傷つけたり。

逆にぜんぜん知らない人がなにかしたことで、ぼくが喜んだり傷ついたり。

ぜんぜん知らない人がやっていることで、ぼくがなにかしらの影響を受けてしまうのが、この社会の仕組みです。

その因果が、ぼくには、目の前にそびえる巨大なタンスのように思えたというわけです。

通り魔のようなことが起こったとき、その被害者や家族は、理不尽に苦しみ、怒るでしょう。

当然その通り魔は社会のルールに従って罰を受けなければいけませんが、通り魔にも通り魔をやらかす事情というものがある。

おおくの場合、彼らは社会から著しく冷淡に扱われ、社会を憎むけれど、どこにもぶつける場所がないというような事情で、凶行に至るようです。

社会全体が、もう少しこの通り魔の人生にやさしければ、こんなことは起こらなかったのかもしれません。けれど現状われわれが生きている社会は、そこまで理路整然とみんなにやさしいわけではないので、どうしても個人単位では無秩序としか思えない犠牲が生まれてしまいます。

実際には、さっきのタンスの引き出しの考え方をすれば、こういうことが起こりえることはわかります。

だれかが引き出しが壊れるくらい強く閉じたら、どこかの引き出しが強い勢いであいて、前にいる人が引き出しに当たって大けがをするなり、死ぬなりしてしまったというようなことです。

巻き込まれる人

『バベル』という映画があります。

あれはモロッコ、アメリカ、メキシコ、日本を舞台にした作品で、モロッコの遊牧民の子供がライフル銃で遊んでいて、たまたまアメリカ人観光客が乗っていたバスを狙ってしまうところから、それこそ巨大なタンスの引き出しを世界中に広げたような形で、見ず知らずの、言葉も通じないような人たちと因果がつながっていくという話です。

あの映画をみたとき、社会そのものは因果がつながっていて規則性に従っているけれど、個人レベルでは不条理に満ちているのだなと思ったものです。

あの映画をみてから、ずいぶんいろんなことを考えるときのヒントになって、たとえば日本人がバブル景気にわいていたとき、日本を豊かにするために発展途上国が利用されていたというようなことや、今般話題になっているプラスチックの環境問題だって、あれは発展途上国が先進国のゴミを引き受けてくれなくなったということで、ゴミとお金の「行き場がなくなった」ことが原因だとか、ものごとの因果を引き延ばしてみることができるようになりました。

戦争と平和

ところでぼくは、人類が向かっていく先は、世界の統一だろうと思っています。そうならざるを得ないというか、それが人類の意志のように思えるのです。

べつに宗教的な話じゃないですよ?

日本では400年くらい前に関ヶ原の合戦や大坂の陣がありましたけど、あれは日本を統一するための戦争で、あの巨大な戦争によって江戸時代の平和が訪れます。

みんな殺し合いなんて望んでいないけど、かといってほかのだれかに支配されることも望んでいません。そこで侵略をしてでも統一に向かわねばならない事情があれば、どうしてもぶつかり合いが起こってしまいます。

国のようなおおきな人間の意志をひとつにまとめようとすると、話がすんなりまとまるようなことはありませんから、戦争が起こってしまう。だからといってひとつにまとめて統治することをしない場合、人間は原始人に戻ってしまいます。

そこで現代では世界大戦の反省を踏まえて「侵略戦争はしない、許さない」ということで国際社会が一致して、経済的な自由競争で国力を競い合っていくということをしています。

が、どうも最近は自由経済も頭打ちになってきて、世界中でまた昔のような封建社会的抑圧が高まってきているように思えますね。

それも大きな意味での社会の因果だと思いますが、ぼく個人で考えるなら、やっぱりそれは不快で不条理な話です。

人類はずっとそのような「不快で不条理」な社会を生きてつないで、一時の平和を得る、ということを繰り返しています。

400年前の大坂の陣では何万人もの犠牲者が出たといいますが、現代から俯瞰してみれば、「江戸時代に生きる人たちが平和に暮らすためには仕方ない犠牲だった」としか言いようがありません。

おなじように二度の世界大戦で出した世界各国の膨大な死者についても、戦後、国際社会が平和を求めるための礎になってもらうために仕方なかった、ということになる。

おなじ人間を生きても、戦争に巻き込まれて悲惨な死に方をすることもあれば、平和な社会で長生きをすることもあります。

そういう不条理と条理の繰り返しの向こう側に、人間が普遍的に条理の道筋の上で心安く生きていられるようなときが来るのかどうか。

不条理の中にあればこそ、そんなことを夢見てしまいます。

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