シベリアンハスキー
そういえば、シベリアンハスキーって最近はさっぱり見かけなくなりました。
30年前くらいから20年前くらいにはやたら見かけた気がするんだけどなあ。
どう考えても、広大な土地を有するロシア系のオオカミの血筋の犬を、狭い日本で飼うというのは無理があるものなあ。
使役犬として生活の役に立てることが前提の犬を、「カッコいいから」という理由で家飼いにするというのはとても不自然です。
ぼくが子供のころまでの犬といったら、どこもシェパードの出来損ないみたいな顔の黒い犬ばかりでした。お世辞にも可愛いとは思えませんが、不思議な愛嬌があったものです。
そういうのが、半野良、半家飼いといった危なっかしい状態で飼われていたのですが、親父世代から「あれは最悪の場合、食えるからな」という話を聞いたときに、ああ、つまり鶏を飼うようなところの延長線にあったのか、と。
それが日本が裕福になると同時に、狩猟をするわけでもないのに狩猟犬を室内で飼ったり、その地域の適性がない見た目だけの犬を飼って、運動不足でストレスまみれにするようになったというのだから、どちらにしても愛玩動物というのは人間の都合に巻き込まれてしまうのだなあ。
インフルエンス(影響力)について考える
今日一日、このことについてずっと考えていました。
いわゆるインフルエンサーとは何なのか。
ぼくはインフルエンサーとは、人間力のカタマリのような人が、圧倒的なカリスマで他者を圧倒しながらおもしろいコンテンツをじゃんじゃん生み出していくものではないかと思っていたのです。
けど、じつはそうじゃないんじゃないかな、という気がしました。
ぼくはインフルエンスという言葉の「影響」の部分に気を取られてたんですけど、よく考えると、影響とは「与える」ものです。
重要なのは、「与える」ということなのではないか。
特にとりわけ大きな表現の才能もなく、事務所などの後ろ盾などもなく、それを専門に仕事ができるわけでもない、という人ほど、「与える」ということに重点を置くべきなのではないか。
たとえば、「おはよう」といってる人に対して、「〇〇さん、おはようございます」とレスポンスをするとか、自分がおもしろいなと思ったツイートにはきちんといいねをするとか、そういう誰かに対して与える行動が、そのまま「影響を与える」ことにつながっているのではないか。
そのためには、「わたし」と「あなた」をはっきりさせるために、自分という人間を表現すること。そして「あなた」をしっかり認識したうえで与えていく必要があるのだろうと思います。そうすることで、
「わたし」が「あなた」に影響を与えた。
という明確な関係が生まれるのだろうと思います。
何かみえてきた?
何か、みえてきた気がする。手がかりのようなものが。
馴れ合いはバブル経済みたいなもの
人間関係で起こる馴れ合いとは、言い換えるならバブルだな、とはここ最近気づいたことです。
本来の人間関係の距離感や価値観を誤って、どこまでも距離が近づいたかのように錯覚し、価値が高まっていくように錯覚し、それがどこまでもどこまでも続いていけるのだと思う。
バブル経済というのは、金がそこに集中して余った結果、土地や絵画といった定まった価値のつけにくいものに、極端に高い価値がつけられていくようになるというものです。
人間関係でもそういうことが起こり得るというわけで。
馴れ合いというのは、人間関係の本来的な価値を無視した高騰です。
それで結局、どこかで「これ、距離感間違えてます。離れないと」ということをやらねばならなくなる。
悲しいけど、バブルは必ず崩壊します。
このとき、人間関係がブレイクしていく原因について理解できていく人から率先して離れていくのだろうと思います。
ぼくも、離れたひとりですd(・c_・`。)ネッ
インフルエンサーという存在にもバブルを感じるからこそ、ぼくは怖いんだろうなあ。
人に対して影響力を持っていくことが、チキンレースのように思えてしまうんですよね。