ずいぶん久しぶりの更新になりました。
いそがしかった、というのは当然言い訳です。いそがしいというよりは、暑さに参っていたというのが正直なところです。
猛烈な暑さの中で、野良仕事です。午前中は配達と収穫、袋詰め。お昼ご飯を食べて、ちょっと昼寝します。
「なんだ、昼寝する時間があるのか」
と思われるかもしれませんが、百姓仕事は息のながーーーーい仕事ですから、一日に無理して働くのではなく、明日も明後日もあることを見据えて、いちばんしんどい時間帯は休むのがいいのです。
それで、夕方にかけてまたひと仕事。
涼しくなるころにかけて、草刈りやサトイモの手入れなどの作業を少しずつ片付けていきます。
それで、まあ毎日滝のように汗をかいて、夕方6時を過ぎるとさっさと店じまい。
昼寝込みでもなんだかんだで8時間以上は働いてます。お風呂に入って、夕食なんですが、この暑い時期はもう、どうしたって冷たい炭酸のお酒がほしくなる。
ビールじゃなくてもいいんです。ぼくのお気に入りは、焼酎ハイボール。安くてうまい。
暑さとアルコールで頭がまったく回りません。ブログみたいな頭を使う仕事がどうにもできなくなる。
しかしどうも毎年、7月から9月にかけては休肝日なしで飲み続けになっちゃうので、今の時期に肝臓が悲鳴をあげます。
毎晩のように下痢をするようになるともう潮時なんですが、そうなっても冷たい炭酸のお酒が飲みたいと思うのは、あれは暑さのせいですよ。
決してアルコール依存症だからではないのです。←アル中は否認の病
今日どうしてひさしぶりにブログを書いているかというと、ようやく涼しくなってきて、これまでと同じ作業をしていてもカラダが楽なのと、涼しくなると不思議と飲酒欲求も少し減って、今日はひさしぶりの休肝日なんですね。
それで、ふだんならヘロヘロに酔っぱらっている時間に、ブログを書こうかなと思った次第です。
鬼婆考
さて、話はいっぺんに変わります。
昔ばなしに出てくる鬼婆というのは、あれはじつはずいぶん気の毒なのではないかと思うのです。
というのも、だいたい鬼婆というのは山奥にいて人を食う、おそろしい人外と化したババアであるということで、昔ばなしではいきなり何の脈絡もなしにあらわれて、道に迷うた旅人を恐怖に叩き入れます。
ところが、鬼婆はなぜ鬼婆となったのか、という背景について考えると、これがとても悲しい。
日本で棄老の風習があったことは有名です。
どこの村落でも家族を養っていくのに余剰の食い扶持があったわけではありませんから、生まれすぎた子供は奉公に出せればよいけど引き取り手がなければ間引いていたし、年寄りも口減らしに捨てられていました。
男手はある程度年をとっても体力があるぶん使い道があります。病気になったり動けなくなったら捨ててしまえばいい。
しかし老婆はもうカラダは元気でも、生産性がなければ無理やり村落社会から追い出されるように捨てられていたんでしょう。
それで、どこに捨てられるかというと、山奥に捨てられる。
山にはオオカミもいれば山犬もいる。体力のない老婆は、捨てられて間もなく山の獣に屠られてしまう運命です。
ところが、老婆がみなそこで朽ちていく存在かというと、そうでもない。
中には捨てられた恨みを抱えながら、何としてでも生き延びてやろうと、自分で小屋を掘っ立てて暮らす者もいたことでしょう。
そういう前提というか、背景が考えられるわけですが、鬼婆の物語というのは、婆様を捨てた側の村落で作られているわけです。
「捨てたはずの老婆が山奥でしぶとく生きているかもしれん。旅人を殺して鉈やら着物やらを奪って、小屋でも作って生き延びとったらどうする。あれは相当わしらに恨みを抱えているから、うかつに道で迷うて婆さんの掘っ立て小屋で一夜明かそうものなら、寝首かかれて食われちまうぞ」
つまり、姥捨てをしておきながら、村落では同時にその老婆を悪者に仕立て上げてしまうというわけです。
鬼というのは、自分たちのコミュニティの外側にいる未知の恐怖のことです。
自分たちの村落に属していた老婆を、そのコミュニティから追い出した途端、彼女らは「鬼」として扱われるようになってしまったというわけです。
しかし粗末な小屋を作って細々と生きていくような老婆はいたかもしれませんが、実際に人をとって食うようなバイタリティ溢れる鬼婆というのが実際にいたかどうかはわかりません。
おそらくはそんな老婆はまずいなかったことでしょうし、村落にいる人たちが作り上げたブラックボックスだろうと思います。