ぼくは先月からとりあえずじぶんの表現したいものは制限せずに書いていくということを決めました。
それによってこれまで意識していた、ブログにテーマを決めて、その趣旨に沿ったことで記事を書くというルールがなくなり、非常に多くの記事が書けるようになりました。
このブログは以前、田舎暮らしについての記事を中心としたブログでしたが、今はこの記事を書いている田中の表現の場と化しております。
ところがいざこういう日記ブログをやってみると、それが結局よかったし、今後のことを考えてもこのスタイルのほうがいいんだということに気づきました。
今回はどうして個人雑記ブログがいいのか、メリットを書いていこうと思います。
個人雑記ブログのメリット
その1 一生続けられる
テーマを絞ってブログをやると、たとえばそのテーマに沿った生活ができなくなった場合に、書けることもなくなってしまいます。
たとえば外食食べ歩きの飲食店レビューブログをしていて、10年くらいでかなり軌道が乗ってきたというあたりで、内臓の病気で食事制限がかかるようになった、となると、ブログを続けることも困難になってしまいます。
こういう場合にそなえて、外食食べ歩きだけにテーマを絞るのではなくて、それ以外に個人的な話題などにも足をかけて積極的にじぶんの話もするようにしていれば、いざというときに切り替えがききます。
もちろんSEOや読み手のこと、ブログの成長性を考えればテーマを絞るほうがいいのですが、この場合はどこかに終端を用意して、ブログとしてのひとつの完成形もビジョンに入れて運営しないと、たいていのテーマ特化ブログは一生続けるわけにはいかないんじゃないかと思います。
その2 いくらでも書きたいことが見つけられる
正直、いまぼくが書いているような話って、ブログを運営しているような人でもなければ「誰が興味あるねん!」というような話です。
でもこれはぼくがブログを書く上での当事者として思ったことであり、おそらくブログ運営において、ぼくとおなじようなところでつまづいている人もけっこういると思うんですよ。
だからそういう人に向けて、「縛りがなければないほど、書くのは楽しくなってくるぞ」ということは伝えたい。
よく、理系の本なんかでも、こむずかしい数学の学術的な話の合間に、息抜きのように1ページ、著者のコラムが挟まっていたりします。
それを、「だれが興味あるねん」といえばそれでおしまいですが、そういう人間への興味がある人があるんですよ。
ぼくはどちらかというとこのコラムが大半で、本筋がちょっぴりというようなことをブログでやるのもいいんじゃないかな、と思っています
そもそもぼくは著者の人となりがわかるコラムや、随筆を読むのが大好きな人間ですから、あまりテーマを絞ったことばかり書くのは、しんどかったのかもしれません。
その3 やりやすいスタンスで表現できる
「インターネットでは、読み手からすればおまえがなにを考えているかなんて興味がなくて、知りたい情報を検索してるだけなんだ。だからブログはシングルイシューでわかりやすく情報を伝えるのがいいんだ」という辛辣な意見をみたことがあります。
たしかにそうかもしれません。ハンドルネームというあいまいなものを引っ提げて、どこの馬の骨かもわからないような人間がなにを話したって、そんなことには興味がもてないといわれたら、ぐうの音も出ません。
ただ、ぼくがここでなにかを書いてるのは、ぼくという人間がやってることなんです。
ここをお読みのみなさんにはなんだかよくわからない人がなんか言ってると思うかもしれませんが、いま京都北部の古民家で、とある冴えないオッサンがノートパソコンを前にしてパチパチとキーボードをたたいてこの記事を書いています。
で、ぼくがじぶんを表現していれば、どこかでディスプレイの向こう側にはきちんと人間がいるということを理解してくれている人も読んでいるはずで、たとえそんな層が少ないにしても、ぼくはそういう層に向けて話しかければいい、ということになります。
創作でも日常生活でもハウトゥでも政治思想でも、なんだってじぶんを表現する材料にすればいいし、どこがきっかけでぼくという人間に興味を持ってくれる人がいるかは、ぼくが決めることではありませんから、どんどん書けばいいんだと思います。
ぼくの場合、このようなやり方でも結果的に日を追って少しずつたくさんの人がこのブログをみてくれるようになってきています。
たとえ専門に特化したブログより作業効率が悪かったりアクセスが頭打ちになりやすかったとしても、自分にとっていちばんやりやすいスタンスで表現するのがいちばんだと思うんですよ。
まとめ
雑記ブログには価値がない、という人が多いですけど、たぶんそんなこともないですよ。
人の数だけドラマはあるし、人間はいつも人間に興味を持ってます。
そういえば最近、美空ひばりがAIとして復活して新曲をうたう、なんてことがあるそうですけど、なんだ人間はどんどん機械のような規則性を求めて表現するようになってるのに、AIは人間のような不規則性を学習して表現しようとしてるのか、と不思議な気分になります。
そうするとぼくのような偏屈は、AIとおなじ土俵には乗らないでいようと努力してしまいます。
AIが真似しようとも思わない、泥臭くて不器用でどんくさいぼくという人間を表現してやろうとがんばってしまうのです。
まとまりのない雑記ブログ、おすすめですよ♪