ぼくがツイッターを再開する気になれないいくつかの理由

他人さまがたのしいと思ってやっていることにケチをつけることはあるまい、と思いますけど、ぼくは正直ツイッターがたのしくなかったのです。

ただ、どうしてたのしくないのだろう、ということをいままでマジメに考えたことがなかったので、今回はそのへんをきちんと考えてみようと思います。

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2000ツイートを超えるのが関の山

今回こそは続くんじゃないか、という手ごたえのあるときでも、ぼくはツイッターで3000ツイートを超えたことがありません。

長くてもだいたい2000ツイートをしたあたりで、アカウントを放り出してしまう。

ぼくはずっと、じぶんが三日坊主だからこんなことになるのだろうと思っていました。

ところが最近になって、どうも飽き性というのでは説明のつかないなにかがあっていつもぼくは衝動的にツイッターをやめてしまっているぞ、と気づいたのです。

そこで、いくつか推測をたててみました。

推測その1 ぼくはものすごく排他的な人間なのではないか

ぼくはふだんはだれの意見も等しく聞いて、できるだけ中庸な立場にいたいと思いながら、なぜかツイッターではじぶんと主義主張の違う人が許せなくて、排他的にモノを考えているところがあります。

生身の人間同士、膝突き合わせて話していればそんなことはないんですけど、ネットの世界はダメなんですね。主義主張が剥き出しになっているので、そこにつかまってしまうことがあるんです。

ツイッターには右翼もいれば左翼もいます。アフィリエイトに血道をあげている人もいれば、儲け話で人をだましてやろうと思ってる人もいます。

もちろんその中には主義主張をせずに現実世界同様平和に過ごす人たちもたくさんいますし、そうでない人もいる。

で、メンタルの波がおだやかなときはそういう多様な人間関係に埋没していてもなんとも思わないんですが、たまにものすごく疲れるときがあるんです。大雑把にいえば、じぶんの気持ちに余裕がないときに、感情をゆさぶってくるような情報の波が押し寄せてくることで、おぼれるときがあるわけです。

こういうじぶんの状況を具体的に言葉で表現するのはむずかしいでしょう。ひと言でいってしまえば「疲れてるねん。みんなしばらくだまってくれ」ですむのでしょうけど、それはぼくの事情でしかないのだから、そんなワガママが言えようはずがありません。

かといって、実際ぼくはもう疲れ切ってるわけです。

それである日突然、感情的に折り合いがつかなくなって、ツイッターから飛び出してしまう。

息が詰まっているときには、もう一刻も早くこの窒息から解放されたいと思うものです。そして、その原因の一端がツイッターの情報過多にあるのであれば、そこから抜け出さないと永遠に自分の気分が解放されないんじゃないかという不安が募る。

ほんとうはある一時期を脱出すれば、また凪に戻るんだと理屈としてはわかってるんですが、けれど心の中で、「一度しんどいな、と思ってしまったのだから、またいずれおなじようにしんどくなるはずだ」とも思うのです。

それで、ツイッターをやめてはしばらくして、体力が回復したような形で今度こそはと再開し、またやめて、ということを繰り返す。

そのような繰り返しの中で、もうぼくはすっかり、ツイッターに魅力を感じなくなってしまいました。

推測その2 だれも聞いてねえや、という虚無感とのたたかい

ツイッターのいいねとかリツイートほど邪魔っけなものはなくて、本来じぶんの発信したいことを発信すればそれでいいはずなのに、いいねをもらうための発信を意識してしまうようになるでしょう。

それで、じぶんなりに懸命に考えて発信したことにいいねがつかない、拡散されないからとガッカリしてるじぶんを俯瞰して、「なにしとるんやろか」とアホらしくなることがあります。

あれはほんとうにバカバカしい葛藤で、そもそもいいねやリツイートという珍妙な機能がなければ、のびのびとじぶんの言いたいことを言いっぱなしにできるのに、本来じぶんがやりたかった表現とはまったく違うことをさせられていることに気づくんです。

ツイッターにおどらされている

「それなら、いいねなんて気にしなきゃいいじゃない」という向きもあろうかと思うのですが、あれはそもそもツイッター社がわれわれをおどらせようとして作った仕組みで、じつによくできています。実際ふつうに使っていれば「いいね中毒」になってしまうんですよ。

それで、あれは中毒だから、いいねがもらえないと虚無感におそわれます。離脱症状におそわれている、といっていいくらいの状況だと思います。いいねでなくても、しばらく返信がだれからもこないとか、これまでもらえてた反応がいちじるしく薄いとか、そんなどうでもいいことでビクビクオドオド。

あれ、たのしむために始めたことじゃなかったっけ?

いつの間にかツイッターにとらわれて、ツイッターで疲れ果てて、ほんとうにツイッターは麻薬とおなじで、ツイ廃とはよくいったものだと思います。ツイッターは巨大なドラッグパーティみたいなものだと考えるとどうでしょう。

まあ、さすがにこれはブラックジョークが過ぎるかもしれませんが、少なくともツイッターが承認欲求を肥大化させるツールなのは間違いないです。

推測その3 金にならない

身もふたもないことを言いますが、ツイッターでどれだけ発信しても、自分の生活を発信するだけでは金になりません。これがおもしろくない理由なのではないか。

たとえばじぶんのブログの集客に利用する、という意図があってもいいとは思うんですが、それだとツイッターはものすごく効率の悪い広告システムなんですよ。

じぶんに興味をもっているフォロワーを増やしながら、ふだんからしっかりとじぶんの魅力を発信しつつ、そこで個々人の気持ちをつかんで、ブログに人を誘導するというのは、ものすごい手間暇です。

その手間暇に見合うだけの広告効果が見込めるのか、あるいは見込めるようになるまでに、どれだけ時間がかかるのか。

そんな間にツイッター特有の承認欲求肥大やら人間関係のこすれあいもつれあいに苦しむことを考えると、もし宣伝だと割り切るにしても、もうちょっとポスティング感覚でやれるなにかがあるんじゃないか、と考えてしまいます。

あるいはポスティング感覚で広告中心のツイッターをしてる人もいますけど、あれはぼくにはわからないもうけの仕組みがあるんでしょうか。

よくDMで、じぶんの取り組んでる儲け話を伝授します、みたいなことを言ってくる人もいますけど、あれを言う時点でねずみ講でいうところの下っ端だからもうかってないだろうな。

まあこれは、最初にいったとおり身もふたもない話だし、ぼくがツイッターを敬遠する直接の理由ではないと思いますけど、それでもやっぱりツイッターを続けるのがしんどいときには、「金にもならんのになんでこんなしんどい思いをせにゃならんのだ」という思いはありました。

まとめ

結局どんなことをやるにしても、じぶんの暮らしをゆたかにするためにやるのだし、これまでぼくはそういう意味で何度もツイッターに期待してきたけど、ダメでした。

どうしてダメなのかということを今回あれこれと考えてみて、だいぶまとまってきたと思うんですけど、それを踏まえて、やっぱりこれからツイッターを始めても、たいして続かないだろうと思います。

いまのぼくがいちばん落ち着いていられるのは、ブログで表現をしているこの瞬間です。

ほんとうはもっとコメントがほしいなあとか、思わないでもないけど、いまのままでもいいんだろうな。

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