この問題は、ぼくがおおくの人と意見がかみ合わないところなんです。
そして、日本人の性質ともいうべき問題で、とても根深い。
どういうことかというと、たとえばものすごく狭い道で車を走らせるときに、対向車の運転が危なっかしい場合。
おおくの人は対向車に向かって「あいつの運転技術はなんだ、危ないじゃないか!」といって腹をたてるでしょう。
ぼくももちろん相手に向かって腹を立てるんですが、それ以上に「どうしてこの道はこんなに狭いんだ! 広くしてもらわないと困る!」といって腹を立てます。
ところがおおくの人は、ぼくが道を広げるべきだといって怒っても、理解を示してくれないのです。
それどころか、これまで一緒になって対向車に腹を立てていた人まで、「まあまあ、道路に怒っても仕方ないじゃないか」といってなだめてくる始末。
まだなにか論旨がつかめない方もいらっしゃると思うんですが、今日はちょっとそうしたところから、昨今激増している自然災害における避難所までにおよぶ「日本人の性格」的な部分について考えてみようと思うのです。
西洋はヒトは変えずにモノを変え、東洋人はモノは変えずにヒトを変える
おまじないのような見出しになりましたが、これは西洋人と東洋人の性格を端的にあらわしています。
交通事故の話をしているにもかかわらず、ここからちょっと話の毛色が変わってくるんですが、しばらくすると元に戻りますから、しばらく辛抱して読んでみてください。
たとえ話をしていきながら理解していただこうと思うんですが、体を鍛える場合、東洋人はっジャッキーチェンの映画だとか漫画のドラゴンボールに出てくる登場人物が修行をするように、道具にことさら頼らずにひたすら肉体をいじめていじめて鍛え上げようとします。
つまり理論よりも、肉体を追い込んで根性でどうにかしようと考える。
ところが西洋文化だと、筋肉を鍛えるための道具を開発して、たんぱく質をしっかり摂取するといった理論を徹底して鍛えていきます。
東洋人はそういった道具に頼る西洋人をみると、邪道な鍛え方をしておる、といって嫌悪感をむき出しにしたりします。
逆に西洋人は、足首をロープで縛って逆さ吊りにされながらひたすら腹筋をしているようなのをみると、「どうしてもっと合理的に鍛えないんだ」といって驚くのです。
日本という国は不思議なことに明治時代以降「脱亜入欧」といって、東洋の文化から脱却して西洋の文化を積極的に取り入れようとしました。
第二次世界大戦時には関係がこじれて、鬼畜米英なんて言いましたが、あれはそれまで徹底的に肩入れしてきた西洋文明がじぶんたちを見限ったという意味での、「かわいさ余って憎さ100倍」とでもいうべき現象で、結局戦後日本はまたすんなり西側諸国の文化になじんで、自国の年中行事をほっぽらかしてハロウィンだのクリスマスだのではしゃいでいます。
ああ、話がいよいよずれてきましたが、ようするにそれほど西側諸国の文化になじもうとしている日本ですが、日本人の性格としてはおおいに東洋的な思考パターンが根付いていて、なかなかこれを払拭することができずにいるのです。
既存のものごとの仕組みを革新していくことを「イノベーション」といいますが、日本は戦後あれだけの経済発展を遂げたにも関わらず、世界の仕組みを根本的に変えてしまうような変革は起こせませんでした。
第1次から現在第4次までに至る産業革命もすべて西側社会主導によって行われており、日本がその先駆けとなるようなことはありません。
日本は既存のなにかをブラッシュアップ(磨き上げる)ことには長けているものの、決定的にあたらしいなにかを作り上げることに関しては、著しくスピード感がない。
西洋に比べると圧倒的に遅いんです。
そこで道路の話に戻る
で、ここまで話してようやく最初の、狭い道路に対する問題に戻るんですが、西洋の考え方であれば、「人間が事故を起こすのは道路が狭いからだ。道路を広くすれば事故は減る」ということになります。
ヒトを変えるのではなく、道具を変えるという理屈ですね。
ところが日本人は「人間が事故を起こすのは、技術がないからだ。道路の広い狭いは関係ない」と言う。
道具を変えるのではなく、ヒトが技術を上げて変わればいい、というわけです。
おそらく日本や中国が爆発的に経済成長をするのは、この手の根性論が一般的に幅を利かせているからで、ところがイノベーションを起こすチカラが弱いから、結局しばらくすると頭打ちになってしまう。
根性論というのはそんなに展望がないんです。すぐに頭打ちになるし、いいことがない。
さらに無茶なたとえ方をしますが、人間は老眼になります。ぼくも最近老眼鏡を使わないと本が読みにくくなってきました。
それで、老眼というのは徐々に進んでいくから、1.0から始まって、1.5、2.0、2.5、というふうに強度の強いレンズが必要になってくるんですね。
ここでたとえば「老眼鏡になど頼るな! 老眼にならないように目を鍛えればいいんだ!」という人がいたら、ぼくはそんな考え方にはとてもついていけません。
「人間はかならず老いるのだから、老眼が進めば老眼鏡のレンズを強いものに変えていけばいいんだよ」
と言います。けれど日本人にはいまだ一定数、「目を鍛えて老眼にならないようにしよう」というような人がいるし、そこになびく人もいるんですよね。
そういった根性でものごとをクリアしていこうという人が、社会のイノベーションに向かおうとする足を引っ張っている。
道が狭いから交通事故が起こるということは明白で、道を広げるべきなんだと主張したときに、「いやちがう、ひとりひとりがしっかり安全運転意識と技術を高めればいいだけの話なんだ」といって、ほかならぬ受益者たちが社会全体の利益になる道路拡張の足を引っ張るというわけです。
こまごまとした不便
最近ではずいぶん改善されてきたと思いますけど、昔の便所というと、異常に狭くて圧迫感の強いつくりになっていることが多かったものです。
「どうせ用を足すだけなんだから、これでじゅうぶんなんだ」
という意識のもとに便所が作られていたわけです。
トイレも人間が快適に過ごせる場所であるべきだ、という考え方が浸透してきたのはここ半世紀から四半世紀の間といったところでしょう。
東京や大阪など大都市圏の電車の朝のラッシュというのは、世界でもめずらしい光景なんだそうです。
いわゆる「すし詰め」というやつで、電鉄会社の利益という点で考えると、見知らぬ異性同士がキス寸前の距離でもみあうようなぎゅうぎゅう詰めという異常事態も致し方ないことなのだそうです。
よくよく考えるとそういう光景はインドでも映像で見たような気がして、かの国では電車の窓の桟に腰掛けるやら、走ってる電車に無理やり飛び移るやら、ほとんど曲乗りのようなことが行われていて、いくらなんでもどうかと思う光景でしたが、ああいうのも東洋的というべきでしょうか。
で、そういう不便に関しては、「我慢するのが当たり前」というのが日本の考え方なんですね。
のっぴきならない「避難場所」の問題
ぼくがいちばん問題だと思うのは、昨今頻発している自然災害時の、避難場所の使い勝手の問題です。
体育館などの避難場所で、より快適に過ごしてもらおうという取り組みがまともに進まずに、ただ「命の危険さえまぬかれればそれでよい」という考え方のもとに、雑魚寝、すし詰め、段ボールで仕切り、粗悪な備蓄食といったものが横行しています。
先日NHKで災害を取り上げている番組があったのですが、そこで「水で戻せるレトルトの備蓄米」を食べるシーンがありました。
そこには味のついていない白米と、わかめと塩で味付けされたものの2種類を食べ比べて、わかめのほうを食べた出演者が「これはほんとうにぜいたくだと思います。味がちゃんとついてるし、ありがたいほうですよ」というようなことを言ってました。
ああ、これが日本人の気質なんだなとつくづく思うのです。
どうして避難者がより快適になるように「もっと美味しくなる余地はないんですか。ビタミンなどの栄養を加えてもいいんじゃないですか? これだと辛抱してご飯を食べているような気分になる」といえないのか。
たいして美味しくない食べ物でも「みんな悲惨な状況なんだから、あるだけありがたいと思わねばならない」という同調圧力と、辛抱することが美徳になってしまう日本的性質が、自然災害の場になると露呈してしまう。
もちろんお金の問題だとか、緊急事態にどうスムーズに食料などの問題を解決するのか、といういろいろな問題があって、実質的に辛抱しなきゃいけない事態があるのはわかってますけど、いまの日本の災害に対する意識は、「辛抱することが前提」になっているように思えるのです。
ぼくは、たとえ災害時でも、もっと文明の利器を活用して便利に乗り切れるようにしていくべきだ、という西洋的発想のほうがいいと思うんですよ。
そして、日本はもう150年にわたっておおいに西側の文明の恩恵を受け、その考え方の影響を受けているわけですから、意識面での「脱亜入欧」、イノベーションも可能だと思っているのです。